月の香りがするというイタリアの香水を友だちからすすめられて、有楽町でたまたま見かけたので買った。
濃いブルーのガラスに閉じ込められた8㎖の液体が、街灯に照らされると月の光に見えなくもない気がした。
控えめに噴射してみると、グレープフルーツやシトラスのほろ苦い香り。ゆるやかな波風のように甘みを帯びていって、ホワイトムスクが忍びこむ。
少しだけ、真夏の夜の予感がする。
香水瓶のしなびたラベルには、"mughetto ”とあって、すずらんの花の絵が散りばめられている。
なぜ友だちが「月の香り」といったのかわからないけれど、すずらんと月は、その微かな毒性が少しだけ結びあわされる気もする。体温に溶けて魅惑たつような甘い香りはどちらにもない要素なのに、ひそやかな狂気の淵を連想させられる。
今宵の夏の空が、ぼんやりと霞んでみえるのはそのせいだろうか。星が滲んで、月の輪郭もただれているのは。肌の奥に眠るものを、揺り起こされる思いがするのは。
『真夏の記憶』
「あ、たけちゃん待って」
昭和15年の8月だった。ゴム草履をひっかけ、「どこ行くん」という母さんの声を背に裏戸を飛び出すと、私はたけちゃんの大きな背中を追いかける。
普段は東京に出ている「たけちゃん」が、月に一度だけこちらに帰ってくる日があった。短く刈り上げた頭と父さんよりも高い背丈で、たけちゃんは小さな田舎でもよく目立ってかっこよかった。たけちゃん、たけちゃんと私は慕っていたけれど、本当の名前はついに知らない。たけちゃんも私のことを「芳子ちゃん」と呼び、ときどき「お嬢さん」とも呼んだ。私はそれが気に入っていた。
お盆にたけちゃんは帰ってきて、私の家にも顔を出した。その日もお父さんやお母さんやおばさんらに一通りの挨拶を終えると、私のもとに跪き顔を寄せ、
「後で、こっそりうちにこい」
と耳打ちした。「たけ、芳子ちゃんに何を吹き込んでるん」とおばさんが顔をしかめてみせたのに、たけちゃんは「大人の話よ」と形の良い歯をみせる。
私にはそれが何かをわかっていた。先月、たけちゃんが帰ってきたときに約束したのだ。
そのあとすぐに走って追いかけてきた私に振り向き、たけちゃんはにっかり笑った。
大きな家につくと、たけちゃんは私を表玄関に残して、一度家の奥に引っ込む。そして、うやうやしくそれを持ってきた。
「ほれ、溶けんうちに食べな」
私は頷いて、差し出されたその器を受けとる。ひやりと冷たくて、少しだけ触れたたけちゃんの指が温かい。それが、生まれて初めてみるアイスクリームだった。まるで日の沈むまえの曇り空を溶かしたようなクリーム色。
ときどきこの辺にアイスクリーム売りのおっちゃんが来るのだ、とたけちゃんは私に教えてくれた。東京だと皆が食べてるもんだともいった。私がそんなの知らないというと、たけちゃんは「芳子ちゃんのようなお嬢さんにはぜひ食べてもらわんと」と、にかりと笑ってみせた。
かくして、たけちゃんは本当にアイスクリームを用意してくれたのだ。
念願のものを手にして、胸の高まりを静かに感じていた私に、たけちゃんの指がのびる。髪の毛に木屑か何かが絡まっていたようで、やさしい動作で取り払われた。たけちゃんの目が見れなくなって、私は俯いた。
「どうした?」
「これ、うちで食べたいな。」
最近、野菜や米がないとため息の多くなった父さんや母さんにも食べてほしいなと、不意に思ったのだ。
そのときのたけちゃんの顔を忘れることができない。薄い唇を固く結んで、切れ長の瞳の奥に、不思議な色の光が滲んでいた。それがどのような感情の切れ端か判別のつかないまま、次の瞬間には「うん、そうしな」と、いつものたけちゃんが微笑んでいた。
奥の方で、おばさんのたけちゃんを呼ぶ声が聞こえた。「ちょっと待ってな」とたけちゃんは私に言い、そのまま廊下の奥に消えてしまう。手に持ったそれをどうしたらいいのかわからないまま、少しずつ液体になっていくのを感じながら私はもじもじとしていた。取り残された玄関で、おばさんとたけちゃんの会話がやけに響いて聞こえた。
─平川さんちには挨拶行ったんだろうね?
─これから行くところだよ
─まったく、祝言まで日がないんだから、しっかりしないね。
ツクツクボウシの鳴き声がじっとりと耳に張り付いている。深呼吸をした息の、行き場を失った。
たけちゃん、結婚するんだ。
私はくるりと背を向けて、そのまま歩きだした。
たけちゃんの家が遠退いていくのを背中に感じながら、さらに走った。冷たい容器はぐっしょりと濡れて、少しふやけている。
ゴム草履が片方脱げて、地平線が揺らいだ。あっと声をあげるよりも先に、中身のものがこぼれだす。
ほとんど液体になってしまっていたそれは、染み入るように地面にひろがった。
肩で息をして、無情に流れてゆくクリーム色をみつめる。西陽にてらてらと光るそれは、私の時間を少しだけ止めた。ゆっくりとしゃがみこんで、指で掬う。そっと口に含ませた。
その年の秋に、たけちゃんは綺麗なお嫁さんをもらった。翌年に戦争が始まると、たけちゃんは兵隊さんになって戦地に向かった。お米も野菜もなくなって、アイスクリームなんてすっかり忘れていた。そのうちに、私はもっと辺鄙な田舎に疎開することになって、たけちゃんとはそれきり二度と会うことがなかった。
戦争が終わってから、私は東京の喫茶店でアイスクリームを食べた。夫になる人から奢ってもらって、「初めて?」と問われれば私はにこやかに頷いた。
それでも、私の瞼の裏にはいつもあの夏がある。
今でも、あの日のアイスクリームは、本当に幻だったんじゃないかと思う。あっけなく手からこぼれ落ちて、春の夢よりも儚く消えた、冷たい甘さ。
でも、幻よりも確かだったあの甘さが、幼すぎた日が、今もこの胸を締めつける。
あの日、地面にこぼれたアイスクリームをすべて食べてしまえばよかったと、今も思っている。
『こぼれたアイスクリーム』
いつからか、君の目は僕を識別していないのだと気づいた。というのは、僕の顔には生まれつきの大きな痣や瘤があり、誰もがぎょっとしてみせるその生々しさに君がちっとも反応しないからだ。
幼い君の、いわゆる「お世話係」としてこの家に雇われたのはいいが、人目を避ける夜だけの勤務だ。
薄い月明かりに照らされるのも、惨めな気持ちにさせられた。
仕方がないこととはいえ、自分は影の中で生きるしかないのだと。
初めて出会ったときから静かにベッドに横たわっていた君は、あまり身体の丈夫そうな印象ではなかった。白い珊瑚のように痩せ細った身体が痛々しくて、僕が姿をみせると、ほんのりとはにかんでみせていた。
「プリンセスのお城がみてみたい」
ある夜、いつものように絵本の読み聞かせを終えたあと君は僕に控えめに呟いた。
恐らく外出もできないのであろう、君から聞いた初めての願いだった。
僕は質素な部屋を見渡して、彼女のベッドの脇にあった荷物や置物を寄せ集める。ごちゃごちゃとした物体ができあがったが、部屋を暗くする。
「これでどうだろう」
窓から青い月明かりが差し込むと、確かにそれは城らしい形となって壁に浮かび上がった。
さすがにまやかし過ぎただろうか。でも、君の小さな唇から感嘆の息が漏れたのを僕は聞いた。
「私のお部屋に、お城がある。」
君の夢見た城の正体はガラクタなのに、それがたとえまやかしの姿であれ、君の瞳は真実を見据えてきらめいている。
壁の城と写る君と僕の影も、どちらがどちらか区別のつかないほどよく似ていた。
僕は何も言えなくて、頬の痣に手をやった。
『影絵』
枯れたミモザの木の下で、その男は朽ちようとしていた。
私が知らせを受け駆けつけた時には、すでに男は屋敷から抜け出し、春の風のもとにいた。
爪が黄色く濁っている。かつては澄んでいた瞳も、今は深い霧の中に潜む。おびただしい傷跡の残る肌は石灰に似て、ひび割れた唇の隙間から、糸のような呼吸が紡ぎだされる。この男はもう長くない。
先の戦争に巻き込まれ、大怪我を老いながらも市長になり、孤児院を設立し、私のような哀れな子どもの世話をした。この男が築いた地位や栄光のすべても、ここの湿った土に還ろうとしているのだろうか。
恐らく、私の姿はもう見えていない。消えかけた男の命を揺り起こすことのないよう、最後の一言を静かに呼びかけようとした。
──私は、この男ではない。
風の音かと思った。しかしそれは、はっきりと人の声をしていて、それも今、目の前の男のものに違いなかった。
──この男ではないのだ。
思わず後退りをした。男はすでに事切れている。
すずらんの葉はしなやかに揺れ、どこからか教会の鐘の音が聞こえた。
枯れ枝のようなその手から、何かがハラリと落ちる。セピア色の写真だった。品の良さげな男が2人、肩を並べて澄ましている。
私は息を呑んだ。ひとりは若かりし日の男の姿であるが、異国の服を着たもうひとりは───。
透明な春の風が梢を鳴らす。
知ってはならないのかもしれない。しかし。
写真の裏に、びっしりと敷き詰められた繊細な文字を、私は早まる心臓を抑え読み解いていった。
『物語の始まり』
私の手首をとろりと伝うあなたの指。血管の筋をなぞるたび、そこがどうして青いのか不思議に思う。
親指でぐっと沈められるとたちまち色を失って、私の鼓動は貴方のものになったのがわかる。
「脈、はやいね」
貴方は力を緩めない。悪魔の子どもより無邪気な顔で、桜色の細い指で私のすべてを押し潰す。
「痛い」と思わず漏れた。その唇はうっすらと熱を帯びて、血の色に枯渇している。
このまま私の肉と彼の皮膚が交ざりあい、ひとつの細胞が形成される。その光景がじりじりと脳の一部に焼きついて、眩暈がした。