「あ、たけちゃん待って」
昭和15年の8月だった。ゴム草履をひっかけ、「どこ行くん」という母さんの声を背に裏戸を飛び出すと、私はたけちゃんの大きな背中を追いかける。
普段は東京に出ている「たけちゃん」が、月に一度だけこちらに帰ってくる日があった。短く刈り上げた頭と父さんよりも高い背丈で、たけちゃんは小さな田舎でもよく目立ってかっこよかった。たけちゃん、たけちゃんと私は慕っていたけれど、本当の名前はついに知らない。たけちゃんも私のことを「芳子ちゃん」と呼び、ときどき「お嬢さん」とも呼んだ。私はそれが気に入っていた。
お盆にたけちゃんは帰ってきて、私の家にも顔を出した。その日もお父さんやお母さんやおばさんらに一通りの挨拶を終えると、私のもとに跪き顔を寄せ、
「後で、こっそりうちにこい」
と耳打ちした。「たけ、芳子ちゃんに何を吹き込んでるん」とおばさんが顔をしかめてみせたのに、たけちゃんは「大人の話よ」と形の良い歯をみせる。
私にはそれが何かをわかっていた。先月、たけちゃんが帰ってきたときに約束したのだ。
そのあとすぐに走って追いかけてきた私に振り向き、たけちゃんはにっかり笑った。
大きな家につくと、たけちゃんは私を表玄関に残して、一度家の奥に引っ込む。そして、うやうやしくそれを持ってきた。
「ほれ、溶けんうちに食べな」
私は頷いて、差し出されたその器を受けとる。ひやりと冷たくて、少しだけ触れたたけちゃんの指が温かい。それが、生まれて初めてみるアイスクリームだった。まるで日の沈むまえの曇り空を溶かしたようなクリーム色。
ときどきこの辺にアイスクリーム売りのおっちゃんが来るのだ、とたけちゃんは私に教えてくれた。東京だと皆が食べてるもんだともいった。私がそんなの知らないというと、たけちゃんは「芳子ちゃんのようなお嬢さんにはぜひ食べてもらわんと」と、にかりと笑ってみせた。
かくして、たけちゃんは本当にアイスクリームを用意してくれたのだ。
念願のものを手にして、胸の高まりを静かに感じていた私に、たけちゃんの指がのびる。髪の毛に木屑か何かが絡まっていたようで、やさしい動作で取り払われた。たけちゃんの目が見れなくなって、私は俯いた。
「どうした?」
「これ、うちで食べたいな。」
最近、野菜や米がないとため息の多くなった父さんや母さんにも食べてほしいなと、不意に思ったのだ。
そのときのたけちゃんの顔を忘れることができない。薄い唇を固く結んで、切れ長の瞳の奥に、不思議な色の光が滲んでいた。それがどのような感情の切れ端か判別のつかないまま、次の瞬間には「うん、そうしな」と、いつものたけちゃんが微笑んでいた。
奥の方で、おばさんのたけちゃんを呼ぶ声が聞こえた。「ちょっと待ってな」とたけちゃんは私に言い、そのまま廊下の奥に消えてしまう。手に持ったそれをどうしたらいいのかわからないまま、少しずつ液体になっていくのを感じながら私はもじもじとしていた。取り残された玄関で、おばさんとたけちゃんの会話がやけに響いて聞こえた。
─平川さんちには挨拶行ったんだろうね?
─これから行くところだよ
─まったく、祝言まで日がないんだから、しっかりしないね。
ツクツクボウシの鳴き声がじっとりと耳に張り付いている。深呼吸をした息の、行き場を失った。
たけちゃん、結婚するんだ。
私はくるりと背を向けて、そのまま歩きだした。
たけちゃんの家が遠退いていくのを背中に感じながら、さらに走った。冷たい容器はぐっしょりと濡れて、少しふやけている。
ゴム草履が片方脱げて、地平線が揺らいだ。あっと声をあげるよりも先に、中身のものがこぼれだす。
ほとんど液体になってしまっていたそれは、染み入るように地面にひろがった。
肩で息をして、無情に流れてゆくクリーム色をみつめる。西陽にてらてらと光るそれは、私の時間を少しだけ止めた。ゆっくりとしゃがみこんで、指で掬う。そっと口に含ませた。
その年の秋に、たけちゃんは綺麗なお嫁さんをもらった。翌年に戦争が始まると、たけちゃんは兵隊さんになって戦地に向かった。お米も野菜もなくなって、アイスクリームなんてすっかり忘れていた。そのうちに、私はもっと辺鄙な田舎に疎開することになって、たけちゃんとはそれきり二度と会うことがなかった。
戦争が終わってから、私は東京の喫茶店でアイスクリームを食べた。夫になる人から奢ってもらって、「初めて?」と問われれば私はにこやかに頷いた。
それでも、私の瞼の裏にはいつもあの夏がある。
今でも、あの日のアイスクリームは、本当に幻だったんじゃないかと思う。あっけなく手からこぼれ落ちて、春の夢よりも儚く消えた、冷たい甘さ。
でも、幻よりも確かだったあの甘さが、幼すぎた日が、今もこの胸を締めつける。
あの日、地面にこぼれたアイスクリームをすべて食べてしまえばよかったと、今も思っている。
『こぼれたアイスクリーム』
8/12/2025, 7:45:01 AM