いつからか、君の目は僕を識別していないのだと気づいた。というのは、僕の顔には生まれつきの大きな痣や瘤があり、誰もがぎょっとしてみせるその生々しさに君がちっとも反応しないからだ。
幼い君の、いわゆる「お世話係」としてこの家に雇われたのはいいが、人目を避ける夜だけの勤務だ。
薄い月明かりに照らされるのも、惨めな気持ちにさせられた。
仕方がないこととはいえ、自分は影の中で生きるしかないのだと。
初めて出会ったときから静かにベッドに横たわっていた君は、あまり身体の丈夫そうな印象ではなかった。白い珊瑚のように痩せ細った身体が痛々しくて、僕が姿をみせると、ほんのりとはにかんでみせていた。
「プリンセスのお城がみてみたい」
ある夜、いつものように絵本の読み聞かせを終えたあと君は僕に控えめに呟いた。
恐らく外出もできないのであろう、君から聞いた初めての願いだった。
僕は質素な部屋を見渡して、彼女のベッドの脇にあった荷物や置物を寄せ集める。ごちゃごちゃとした物体ができあがったが、部屋を暗くする。
「これでどうだろう」
窓から青い月明かりが差し込むと、確かにそれは城らしい形となって壁に浮かび上がった。
さすがにまやかし過ぎただろうか。でも、君の小さな唇から感嘆の息が漏れたのを僕は聞いた。
「私のお部屋に、お城がある。」
君の夢見た城の正体はガラクタなのに、それがたとえまやかしの姿であれ、君の瞳は真実を見据えてきらめいている。
壁の城と写る君と僕の影も、どちらがどちらか区別のつかないほどよく似ていた。
僕は何も言えなくて、頬の痣に手をやった。
『影絵』
枯れたミモザの木の下で、その男は朽ちようとしていた。
私が知らせを受け駆けつけた時には、すでに男は屋敷から抜け出し、春の風のもとにいた。
爪が黄色く濁っている。かつては澄んでいた瞳も、今は深い霧の中に潜む。おびただしい傷跡の残る肌は石灰に似て、ひび割れた唇の隙間から、糸のような呼吸が紡ぎだされる。この男はもう長くない。
先の戦争に巻き込まれ、大怪我を老いながらも市長になり、孤児院を設立し、私のような哀れな子どもの世話をした。この男が築いた地位や栄光のすべても、ここの湿った土に還ろうとしているのだろうか。
恐らく、私の姿はもう見えていない。消えかけた男の命を揺り起こすことのないよう、最後の一言を静かに呼びかけようとした。
──私は、この男ではない。
風の音かと思った。しかしそれは、はっきりと人の声をしていて、それも今、目の前の男のものに違いなかった。
──この男ではないのだ。
思わず後退りをした。男はすでに事切れている。
すずらんの葉はしなやかに揺れ、どこからか教会の鐘の音が聞こえた。
枯れ枝のようなその手から、何かがハラリと落ちる。セピア色の写真だった。品の良さげな男が2人、肩を並べて澄ましている。
私は息を呑んだ。ひとりは若かりし日の男の姿であるが、異国の服を着たもうひとりは───。
透明な春の風が梢を鳴らす。
知ってはならないのかもしれない。しかし。
写真の裏に、びっしりと敷き詰められた繊細な文字を、私は早まる心臓を抑え読み解いていった。
『物語の始まり』
私の手首をとろりと伝うあなたの指。血管の筋をなぞるたび、そこがどうして青いのか不思議に思う。
親指でぐっと沈められるとたちまち色を失って、私の鼓動は貴方のものになったのがわかる。
「脈、はやいね」
貴方は力を緩めない。悪魔の子どもより無邪気な顔で、桜色の細い指で私のすべてを押し潰す。
「痛い」と思わず漏れた。その唇はうっすらと熱を帯びて、血の色に枯渇している。
このまま私の肉と彼の皮膚が交ざりあい、ひとつの細胞が形成される。その光景がじりじりと脳の一部に焼きついて、眩暈がした。
みんな死んだような色の季節がめぐると、不思議と君がまだどこかで生きているような錯覚をする。
夏の間、蝉の声に掻き消されていた細やかな息づかいと、もう死んでしまったものの冷たい心音が聴こえてくる。だから冬は嫌いなんだ。
君に会いたくて、ありとあらゆる迷信を実証しようとした。しかし異世界に行くことはなければ、霊の気配を感じることもなく、そこにはただ、君がいなくなってしまったときから何も変わらない私がいる。
しかし私は老いていく。年だけは立派に重ねていって、流す涙の味も薄くなり、私の背後に横たわる君の死に近づいていく。それは嬉しいことだけれど、トパーズの欠片を寄せ集めたみたいな君の記憶も、私の命が尽き果てれば、そのきらめきを失ってしまうんだろう。
なかったことにならないかと思う。
何もかもがなかったことに。
何に才能があろうとも、金にならないと言われてしまえば、それに反論する術を私は持っていないから。食っていけない。生きていけないと言われて、実際そうなのだとそこで止まっている私がいる限りは。
人と同じように並ぶために、いつまでも馴染めないものを目指して、どうせこのまま生きていくというのなら。鍋底で煮え切らない骨の屑のように、順応しているふりをして、つまずいて、呆れられ、信頼されず必要とされず、積み重なってゆく記憶に蓋をして笑うなかで、ふっと訪れる虚しさにこたえながら生きていく、その連続が私の人生だというのなら。いっそ最初から、私という存在がなかったことになってしまえばと。そう考えているときだけ、ぼやけた思考回路がクリアになって、はじめて、ただ一点だけを見据えることができるようになる、そんな錯覚をする。
弱々しい鳴き声の子猫は、真っ先にカラスに食われるだろう。人間は弱々しい声をあげてるだけでは誰の目にも止まらない。そこが辛い。
聞こえない、もっと大きな声を出せと、
どうして声が出ないのかといわれるだけ。
だから、命有る限りは、ただ、生きるしかない。
マイナスから0になるために、そのために、生きることしかできない。