そいつの横顔はいつも鋭かった。
己が不当な道で食っていることに、それなりの覚悟でもあったのか。
窓のない部屋に籠り、凍てつかせるような眼をして、筆をとる手はいつも微かに震えていた。
息をのむような絵を描く男だった。
しかし、贋作師だ。
案外の高値がついてしまうそれらは、本来市場価値のない代物であるのに、そいつの生み出す絵は確かに生きていた。弛みのない鮮やかさが、苦しいほどだった。
今でも眼を閉じると、あの薄暗い秘密の厨房が思い起こされる。
濃い油とインクの匂いに満ちて、そいつは骨張った背中を丸めている。
天井から吊り下げられた真鍮のランプシェードが、首筋の白さを仄かに浮かび上がらせていた。
靄のかかる冬の朝、昨晩の酒の悪酔いが覚めないまま、俺は何気なくそいつの厨房を訪ねてみる気になった。
そいつは珍しく暇をしていたみたいで、気前よく出迎えてくれた。残り少ない煙草もくれて、久しぶりに味わった。
「この冬の寒さは堪えそうだな。」
「うん、そうだな。もう雪のちらつく空をしている。」
とりとめのない会話がぽつぽつと生まれては途絶え、その繰り返しに時折胸のつまる思いがする。
ただ、そいつの青白い顔に滲んでいたのが、あまり見たことのないような穏やかなものだったので印象に残っている。
いつも筆を握る指には煙草が挟まれていて
乾いた唇の隙間から煙を細く燻らせる。
俺は、なぜかその光景を虚しく思った。
吸い込んだ煙の行き場をなくして、ふと、いつもどのように絵を描いているのかと、聞いてみた。
そいつは伏し目がちの目をこちらに向けることもなく、静かに口の端で微笑んだ。
時を止めて春を望む
雪原に桜を描き、花びらが土に落ちるのを見る
そういう作業さ、と事も無げに言った。
俺はしばらくその言葉の真意を探ってみようとしたが、解りかねることを悟ってやめた。
その年は、記録的な寒波に見舞われて死人の多い冬になった。俺は父が体調を崩したのを機に田舎に戻り、そいつからは病の知らせが届いたきり会っていない。
そいつの絵は、その圧倒的な技術の高さに価値を見いだされたのか、物好きなコレクターらからは一定の指示を得るようになったらしい。
しかし、あれから取り残された思いがある。
あの冬の朝、暗がりの厨房でふと抱いた虚しさが潰えることはなかった。
そいつが、どのように絵を描いているかなど本当は気にならないことだった。
あの時俺は、なぜ贋作を描き続けるのかを聞きたかったのだ。
お前ほどの観察眼と気力を持つ人間が、淡々と偽のものだけを生み出すために、その命を削るほどの大義でもあったのかと。
時を止めた冬に、春は永遠に来ない。
そいつはやはり静かに微笑むのだろう。
唇の隙間から、冷たい煙を燻らせて。
「時を止めて」
あの人の指先や睫毛が気になりだしたとき、金色の風が町をめぐっていたけれど。ひやりと胸に落ちた甘い香りは、冬の来る前に消えてしまった。
『秋恋』
雪をみてみたいと涙する王女様に、魔法使いがアーモンドの花を散らしてみせたという話、幼い頃言い様のないときめきを感じていた。
色づく葉がみてみたいと泣いたら、赤々と燃える葉を空から降らせるのかもしれない。
私と君はわかりあえない。
それはわかっていたことだった。
生きるスピードが違うのだ。
私と君が見据えている方角に寸分の狂いはないはずなのに、ときどき私を見つめるみずみずしい瞳の、その焦点はいつまでもあわない。
悔しさ、恨めしさ、眠っていた感情を揺さぶるすべてを私たちはぶつけ合えるのに、肉体は虚ろのままで震えることすらできないでいる。
私たちは刻々と、規則正しくずれている。
時計の針が重なってまた過ぎていくように。私は君には追いつけない。
でも私は、昔からたった一人しか愛せないのだ。1000年前の人間だったら、私はそのたった一人に殺されてもかまわないとすら思える。その時君は私を私だと知らずに命を奪う。
薄ら冷たい私の死体が君の瞳に映るとき、私たちは初めて同じ時を刻める。それくらい鮮烈な何かを君との間に予感している。
私と君との針がいつか重なりあう、そのひとときにだけ、ただ息をしていたい。
『時計の針が重なって』
湖の底から、星屑みたいな君の骨を掬い上げた。
美しい夏の朝に、君は一人出ていった。まっさらなシーツを床に落としたまま、靴も履かず、僕のほうを振り向きもせずに。
生意気な声、柔らかい唇、耳たぶの薄さ、君がいたときよりにも深く濃く、僕は君のことを考える。
歳月が流れて、湖から身元不明の白骨があがったと耳にしたときも、ただ君のことを思い出していた。
出会った頃よりも痩せた君の背中は血の気がなくて、骨が生白い皮膚から浮き出ているのが服越しにも伝わるのだ。薄い月明かりの下、珊瑚の死骸のような身体はいつも冷たかった。僕はそれを指でなぞるのが好きだった。
生きている。君は生きている。
君はこの広い大地のどこかで息づいている。
君がいなくても、世界はいつも美しかった。君がいなくなった夏の日のように、エメラルド色の木漏れ日が僕の肩を透かし、蜘蛛の巣にかかる朝露は、宝石のようにきらめき震えている。
君はどこかで生きている。
つんとした顔、あどけない頬の思いがけない柔らかさ。この掌にかかった息のぬくもり、今もすべてここにあるのだから。
夜の水面のような歳月が過ぎた。
余命が幾ばくもなくなってから、僕はふと、あの湖へ訪れる気になった。
家族のみなが寝静まった頃、ひっそりと浴びた夜風の心地よさを僕は死ぬまで忘れない。
月夜に沈む湖は、僕を優しく迎え入れた。
鎖骨のあたりまで水に浸かると心臓の動きが鈍くなる。素足に固いものが触れて、そっと掬い上げたときに、あの夏の匂いが甦った。
濡れた小石に混ざる白い欠片。
掌に伝わるこれは、君の骨だとすぐにわかった。
薄い皮膚の下に隠された君の脊椎を、僕はよく想像した。いつか触れてみたいと思っていた。
なぜ、君は出ていってしまったのだろう。
遠くの月は沈み、もうすぐ夜が明ける。
君がいなくても、僕の心臓がとまっても、
あの夏のように美しい世界は訪れる。
君は生きている。
僕と一緒に生きている。
『僕と一緒に』