パリのシャルル・ド・ゴール空港から飛び立ってから10時間は経っていたはずだ。寝ても覚めても恐ろしく遠い空の上、いったい今が朝なのか昼なのか、それとも夜なのかすらわからない。
いつのまにか機内食は下げられていて、彩度の低い邦画をほとんど寝ながら流し、エンドロールに入ったところでお手洗いのためにのそりと席を立った。機内は静かで、隣で友達も寝入っていたけれど少し起きてしまった。
足取りはわりとしっかりしていたのに、頭がふらふらとしている。寝たり起きたりを繰り返していたから、もしかしたら、その時私が見た光景も夢だったのかもしれない。
お手洗いから戻るとき、近くの小窓にふと目がいった。もちろん見えるのは空だ。でも、それは見たことのない色だった。気づけば、額がつきそうなほど窓に近づいていた。
たゆたう雲が遥か下に沈んでいる。彼方に望むのは海の底ともいえない、まろやかな濃いブルーだ。
日没でもない。夜明けでもない。ただ、純粋な朝と夜がゆるやかに調和して混じっている。
「空がさ、見たことのない色してたんだけど。今って何時?」
いそいそと席に戻るなり、まだ寝ぼけ眼でスマホをいじっていた友達に、つい小声で話しかけた。
「4時みたい。……あ、でも日本時間だと夜7時だね」
「今どの辺なのかな」
「モンゴル……中国辺り飛んでるね。」
え、と思わず疑いの声をあげる。
「そんなに時差あるんだ?冬の4時にしては明るすぎるし、7時は暗すぎるって感じの、見たことない青色してた。」
それからは友達からの反応がなかったから、寝たのかと思った。写真撮っておけば良かったなと名残を感じつつ私もアイマスクをつけたけれど、
「ミッドナイトブルーってさ」と、唐突な言葉がふってきた。
「え?」
「中国の昔の磁器とか……明の磁器の青色ってミンブルーて呼ばれてたって、授業で先生いってたな。」
空からとってきた色なのかね、と友達が呟いた。私は明の磁器とやらを教科書便りに思い浮かべて、少し考えてみる。
ミンブルーの釉薬の濃紺さに筆をちょいっとつけて、水に含ませさらさらとひいたら、もしかしたら似かよった雰囲気になるかもしれない。それだと薄すぎるか。
あの青は、広大な大地の果てにも見つからなかった色なのだろうか。
地面から1万キロメートルも離れた空で思いがけずに見た空の色を、先人たちが知ることはなかったはずだ。でも、かつて築かれた豊かな文化と思想の深さのその上空に、あの淀みないブルーが静かに横たわっていたのを想像する。
そのうちに私も、やっと眠ってしまったみたいだった。
『Midnight blue』
ラブラドライトを知ったのは、中2の夏だ。
僕の家の隣には工場があった。何の工場だかわからないけれど、今にも崩れ落ちそうな外観をしていた。
実際、強い風が吹く日には屋根のトタンがボロ切れのように飛んでいって、市役所の職員が注意喚起に来たこともある。どうしようもないところだと、反抗期を迎えた当時の僕は思っていた。
学校に行くときは自転車をこいでその工場の前を通りすぎてゆくわけだけれど、毎朝、そこの従業員のおっちゃんとすれ違う。汚れたツナギ姿で、真っ黒に焼けた肌は汗と脂でいつもテカっていた。
うんざりするほど暑い夏のある日だった。いつものように工場前を通ったとき、煙草を吹かしていたおっちゃんに「ちょっと、ボク」と呼び止められた。
「見てみこれ。」
訝しげに自転車を降りた僕に手を招く。僕も暑さで頭をやられていたのかもしれない。面倒だと思いつつ、警戒心をおざなりにして近寄った。
おっちゃんは煙草を地面に擦りつけ、ツナギのポケットにごそごそと手を突っ込んだかと思うと、煤に汚れて真っ黒な拳をそっと開いてみせた。
「これ、本物の石よ。綺麗だべ。」
一瞬、おっちゃんの手に握りしめられていたものが何だかわからず、僕は思わず息をのむ。
差し出されたそれはまさに想定外で、まるでこのおっちゃんと工場に不釣り合いに、芳しい光の粒を湛えていた。
夏の夜の海とか、星のように飛ぶ蛍とか、幾光年の銀河とか、とにかく、そんな風にひそかに冴え渡る宇宙の底を覗きこんでしまったような気がした。
「ラブラドライトってんだ。これは宝石じゃなくて準貴石ってやつでな。曹灰長石って種類だ。こいつを俺はお守りにしてんのよ。」
ラブラドライト、と思わず反芻した気がする。
コンスタンティヌス帝とか、ネフェルティティとか、普段は片仮名が苦手なはずだけれど、その響きはうだる暑さのなかですっと耳に馴染んだ。
おっちゃん、こういうのが好きなんだろうか。
やけに詳しそうだけれど、おっちゃんはもう満足したのか、「引き留めて悪ぃんな、学校いっといで」と、そそくさとまたポケットにしまってしまった。
なんでおっちゃんは僕に石をみせたのか。
勉強していても、部活をしていても、あの不思議な輝きは中学生だった僕の脳裏に、ふとした瞬間射し込むのだった。
実家をでて、しばらくたって地元に帰ると、あの工場は新築の電気会社になっていた。
ふと、あの石のことを思い出してネットで検索してみる。『思慕』なんて石言葉がでてきて思わず吹き出しそうになった。
あのおっちゃんに思慕?それはない。
でも、もしも再びおっちゃんに会うことがあるとして、またあの石を見せられても同じ感動を味わうのだろうか。それとも、蝶の羽のような輝きに切ない思いがするのか。
あれ以来ラブラドライトを見ることは僕の人生になかったから、きっと忘れない記憶になりそうだ。
『きっと忘れない』
古びた檜の床がキリキリと鳴くような音がしたら、あの人が帰ってきたのだとわかる。
あの人の左足は、膝から下がなかった。生まれつきのものかはわからないけれど、初めて見たときから鋼色の義足をつけていた。
私が貧しさに喘ぐ学生だった頃に住んでいたアパートの、隣にいたのがあの人だった。軽く挨拶をしたくらいで、言葉を交わした記憶はほとんどない。若々しい容姿なのにグレーの頭髪で、瞳も霧がかったような淡い灰色をしていた。
学校からの帰りが遅くなった夜に、ときどきアパートの回廊ですれ違うことがあった。暗く冷たいその場所で「こんばんは」と声をかけると、そっと会釈をする。それだけのやり取りだった。
通りすぎるときは、いつもやさしい石鹸の香りがした。聞きなれない音がぎこちなく、しかし整然と暗い回廊に響き渡る。私はときどき、その孤独な後ろ姿をじっと見つめてみた。
その後私は引っ越したから、あの人が今もあのアパートに住んでいるのかは知らない。
それでも時々、もの寂しさに眠れない夜はあの人の足音が聞こえる気がする。
『足音』
水底をさかさまにしたのが空の色。
だから目をうっすらと細めると、魚が泳いでいるのがみえる。
幼い妹がそう言うから、空に向かって目を細めるのが癖になってしまった時期がある。私も幼かったけれど、湖で溺れたことのある妹だから、妙な説得力がある気がした。
母さんに「むつかしい顔をしてたらシワになるよ」と言われてからはぱったりとやめた。青い空に魚の姿が見えたことはない。
魚は空にいないよ、と私が言うと妹は拗ねたような顔をみせた。でも、すっきりと晴れた空の日は、いつも歌うように口ずさんでいた。
─お筆で掻いた雲の筋は、お魚の泳いだあと。入道雲は大きいお魚のお家。ひつじ雲にはお魚の赤ちゃんが眠ってる─
中学生になった妹が、今も空を泳ぐ魚を見ているのかはわからない。最近ますます生意気な妹との喧嘩は絶えないけれど、晴れた日にふと思う。
湖の底に落ちたとき、彼女は遠くの空へ近づいたんだろう。
『遠くの空へ』
君が幸せだったのかわからない。
私のもとに嫁いできた君。白い胸元には、いつもヒヤシンスの扇子をゆらめかせていた。
水色の淡い眼差しを虚空に漂わせて、「もぬけの殻だ」と囁かれていた。その夏の夜空のような瞳に、私の姿が映ることは一度もなかった。
ふらりといなくなってしまったのは梅雨晴れの午後だ。君は香りひとつ残さなかったのに、ヒヤシンスの扇子だけが、きちんと畳まれ残されていた。
年月が過ぎた。私の目はもう何も見ることができない。それでも、今でも君の姿を見たいと思っている。いたいけで物憂げなあの横顔を、この目に永遠に閉じ込めていることを許してほしい。
君は私を知らないだろう。でも、君の見た景色のなかに、私はまだ生きている。
『君の見た景色』