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5/6/2026, 9:49:09 AM


君と出逢って、私は自分の醜さに気づいた。

17才になった君が、私の顔を初めてみたあの夜。
薄茶色の瞳が氷のように固まってゆくのがわかった。

怖いかと尋ねると、君は素直に頷いた。
触れてみるかとさらに聞くと、君は静かに首を振る。

昔から君の飾らなさが好きだ。

幼い顔立ちで、こまっしゃくれていて、喧嘩っぱやく、花びらみたいな唇をよく尖らす。ときどき黄金色の夕陽に溶けてしまいそうな、もの寂しげな表情をする。男と出ていった母親の帰りを、いつも待っていた。

君を不幸な子だと思っていた。
だから狂おしいほどに愛おしかった。
私も自分を不幸だと思っていた。親の暴力で潰された顔のまま、人目を避けて生きるしかなかったのだから。

でも君と出逢って、そんな私自身の生を許せるような気持ちにすらなれた。これが愛だと囁く声は、私を静かに歪ませた。

君となら幸も不幸も分かち合える。
微かな確信に導かれ、美しく成長した君にこの素顔を晒したのだ。

君の瞳は凍りついたままでいる。細い肩を震わせて、私の手から逃れる。

「近寄らないで」と、青白い顔が訴えている。

私は、私の生に絶望している。それでも君に惹かれるのをやめられない。私はただ醜い。


              『君と出逢って、』

5/4/2026, 9:19:56 AM

母さんの指輪を埋めた。

去年の夏に肺炎をこじらせてからというもの、母さんはみるみる弱っていく。もともと虚弱な身体を繋ぎとめていた命の糸が、めぐる季節とともに少しずつほどけていっているのだとわかった。

いつからから、母さんは自分のことをあまり話さなくなった。ベッドで横になっている時間のほうが長くなった。そして調子の良さそうな日は、料理本やガーデニングの雑誌、好きなキャラクターの小物まで、淡々と捨てていった。

ついに、母さんの大事にしていた白バラの小径も「管理しきれない」ということで刈り取られることになった。庭を囲う艶やかな白バラは、僕が生まれた日に植えたのだという。母さんが死んだ後にもずっと咲いてくれるものだと思っていた。

母さんはこの世に存在していた痕跡すら、露に消してしまおうとする。
ただひとつ、桐ダンスにしまいこんでいたそれを除いては。

「これはね、お棺に入れてほしいの」

白いオパールがついた銀の指輪は、痩せ細った母さんの指にすっかり合わなくなってしまっていた。

「母さんが死んだらね、一緒に燃やしてね。」


風薫る昼下がり、母さんは穏やかに眠っている。
僕はポケットに指輪をしのばせ、スコップを手に庭へと飛び出した。
白バラの蕾はすでに膨らんで、赤ん坊の唇のようにみずみずしく震えている。このまま風の匂いすら知らず、永遠に咲くことはないのだろう。

数日後には切り取られてしまう、その根本にスコップを突き立てる。湿った匂いが立つ。冷たい土に触れて、小さい頃にもこうやって母さんと蝶を埋めたのを思い出した。

花から花へと舞う姿が美しかった蝶、青い斑点のあるやつを、母さんは特に気に入っていた。僕はそいつを捕まえて、花と一緒にガラスケージに閉じ込めた。

翌日にはガラスケージのなかで萎びていたのに僕はひどく動揺して、泣いてしまった。

「皆、最期はこうなるから。」

あのときも母さんは淡々と土を掘り、涼やかな横顔で蝶に土を被せていた。イヌノフグリを摘み取ると、そっと置く。

「蝶のお墓、二人だけの秘密ね。」

カツン、とスコップの先に小石があたった。
どこに蝶を埋めたのか、思い出せない。
母さんは覚えているのだろうか。僕らの秘密を。

蝶を死なせたのは僕だ。捕まえたとき、僕の手のひらで蝶はもうぐったりしていた。
あの日も、母さんは僕を咎めることはしなかった。

泣きたくなるほど小さな指輪に、そっと土をかけてゆく。白いオパールがきらりと反射して、静かに濡れているようにみえた。


              『二人だけの秘密』

1/5/2026, 9:08:23 AM

幸せとは花の香りに似ている。
思いがけずにふわりと香って、その実体は掴めない。ああ、もうここにはないのだと錯覚する。

大切だと思っていた男に振られた夜、泣き腫らした目には痛いくらいに星が綺麗だった。 

ひとしきり泣いて、嗚咽も枯れはて、まだ水分が抜けていく。このまま干し葡萄みたいになれたら滑稽だと思って、急に酒を煽りたくなった。庭についた銀木犀の花びらをむしりとり、ラム酒にぶちこむ。思い切り飲み干すと喉が焼けて、目眩のする香りが鼻を抜けた。

バカラのグラスは男から貰ったものだ。窓から放り投げてやれれば幾らか気分がいいと思ったけれど、地面に叩きつけられ散らばるそれよりも、今宵の空の美しさにはかなわない。冷たいグラスの縁に口づけて、最後の花びらを舌ですくう。

朦朧とする頭に潜む、触れたことのない未知の隙間に、私は確かに幸せを感じていた。


                 『幸せとは』

12/24/2025, 4:20:07 PM



17才のクリスマスイブ、私はコペンハーゲン空港に
取り残された。

家族と諸事情でデンマークに訪れていて、その事情にさらに事情が重なりといろいろあったのだけれど。

とにかく、両親が先に日本に帰ってしまったのだ。
ベツレヘムの星を目指すがごとく燦然と飛び立つ飛行機をみて、私は絶望に輪郭があるのを知った。

その後、「自分の殻を敗れ!」と父からスマホにメッセージが入っていたけれど、誤字だし。よりにもよって負けているのがいっそう煩わしい。

望みが絶たれるなんて大袈裟な字面にみえるが、実際にそれに近い状況に立たされると、クリスマスツリーの白い天使も可愛らしいニッセも、途端にただの人工的な静物にしかみえなくなった。

北欧の冬にぶくぶくとしたコートを着て寒がっている私自身が、鏡に写すまでもなく愚かな生き物に感じられてならなかった。

とにかく今晩の寝る場所を探さなくてはならない。
異様に冷めきった頭で、それだけははっきりとしていた。

ロビーには私ともう1組、ビジネスクラスに搭乗予定であった日本人夫婦がいた。こちらも事情があり、空きが出るのを願って明日の便で帰ることになったらしい。

どちらから先に声をかけたとかもない。
異国の風が自然と背中を押すように、私たち3人は自己紹介もままならないまま、コペンハーゲンで結束した。

とりあえず、タクシーでホテルへ向かおうという話になった。
ご主人がタクシーを呼んでくれ、その間私と奥さんはカフェの近くのベンチで待つ。お手洗いに行ったり奥さんとおしゃべりをしたりして空港の夜を過ごした。

タクシー代を確認してみると、あろうことか現金を所持していないことに気づいた。今まで親から渡されたカード便りだったのだ。
日本に帰ったら必ずお返しすることを伝えると、


「いいのよ!困ったときはお互い様だから!」と。 


その後タクシーが到着し、私たちは慌ただしく乗り込む。向かう先は、朝方に空港までのバスがでるホテルらしく、それで明日は行きましょうという話をした。

タクシーの荒い運転に揺られながら、私は冷たい窓ガラスの向こうの何もない夜をみていた。

今までも「何とかなるか」の精神でのらりくらり生きてはきた。しかし、その「何とかなるか」でぎりぎり保てるかどうかわからない橋の上に、北欧の地で立たされている。現実にしては感触がなく夢にしてはハードだ。

そうしてぼーっと窓の外を眺めていたら、「はい!」と奥さんから何かを差し出された。


「これさっきのカフェのなんだけど、これでも飲んでリラックスしましょ!」


渡されたのはホットチョコレートだった。
いつの間にか買ってくれたのか。思いがけずに満ちた甘い香りを、反射的に受け取った。


「さっき約束したから、ご馳走させて。」


奥さんのこの言葉の意味を思い返しても、やはりホットチョコレートをご馳走してもらうような約束をした覚えはない。

私は「ありがとうございます」としか言えなくて、今のこの気持ちをそれでしか表せない言葉の窮屈さがもどかしく、指先から伝ったぬくもりは今でも残り続けている。

初めて、流れる夜の景色が瞳に灯るのを感じた。

翌朝、私たちは無事に空港までたどり着き、
その日のうちに奇跡的に飛行機に空きがでて、日本に帰ることができた。夫婦とはそこで別れになった。

薄暗い北欧の夜に差し込んだ、太陽のようなご夫婦。自分がこの先どういう進路を歩むか悶々としていたあの時期に、どの道を選んでもこういう大人でありたいと思わせてくれた。

何年経っても忘れ得ない、
遠いぬくもりの日の思い出。



12/22/2025, 9:58:16 AM



暮れの空は青かった。
淀みのない瑠璃色に、星が点々と砕け散る。

私は咳払いをひとつして、霜の降りた引戸に手を掛けた。がたついた音が、薄ら暗い部屋に哀しく響く。灯りもとぼしいその奥で、彼は黒い背中を丸めて微動だにしない。

床を軋ませ歩み寄っても、こちらを振り返ることはなかった。何本もの銀糸が張り巡らせているような冷たい緊張に満ちている。

彼は細身の顕微鏡を器用に扱い、黒い漆塗りの器を神妙にのぞき込む。手もとにはピンセットと半紙が無造作に重ねられて、細筆の穂先は墨で固まりかけているようにもみえた。

今宵もまた、雪の結晶を写し取っているのか。
もう溶けているだろうに。

灯明皿に消えかけの火が点り、その縁には小さな蛾の死骸が静かに置かれていた。


「おい、」


声をかければ、うめくような返事があがる。私が来たのだとわかればこれ以上の反応を示さない。


「今朝方、母君が亡くなったよ。」


微かに気配の揺れた気がした。「そうか」と呟いたきり、凍てつく沈黙が薄闇を縫う。
私はまた、ため息をつくことすら憚られる衝動を押さえ込むことになる。

二年前の淡雪の夜、良い縁談を蹴って女中の娘と駆け落ちした彼を、私は何もいわずに見送った。

その後まもなく、流行り病で彼女を失ったときいて
彼のもとを訪れるようになったが、彼の生活に歪はなく、平常を保っているかのようにみえていた。

「もう行く宛てもないことだし。」と、柄にもなく微笑む姿には、こちらもさすがに同情した。

ただ、雪の降る夜になると、彼はそれを黒い布で受けとめて、ピンセットで慎重につまみ、黒い漆塗りのなかで観察するようになった。薪ストーブには埃が積もり、雪を口に含みつつ顕微鏡をまわすのだ。

明けも暮れも雪の結晶を観察し、描きとめる。
氷りついたその生を削るように。

椿油と墨の混じる匂いが、この部屋の暗さをいっそう深淵に引きずり込む。
来る冬も来る冬も、なぜ単なる友人である自分がこんな思いにさせられるのか、腹立たしかった。


「君はいつまでそうやって──」

「苦しんではなかったか。」


思いがけず、私の声に彼のそれが重なった。
彼はこちらに向き直ると、私の顔をじっと見据えた。


「静かに逝けたのだろうか。」

「──それはわからない。君の妹から聞いただけだから。ただ……」


射るような視線にこたえるように、
私は静かに息を吐き出す。


「ただ、君に戻ってきてほしかったようだよ。」


ちらちらと頼りなげに揺れる火が、彼の生白い頬に薄く影を落としていた。

誰の言葉でもなかった。
彼の母は穏やかに息を引き取ったと聞いていて、
妹やその他親族は、彼の顔を見たくもないのだと、知っていた。

彼の顔に微笑みはなく、しばらく黙って私を見つめていたが、その視線をまた顕微鏡に戻す。
誰のものでもない言葉の澱が、私の胸にしんしんと降り積もる。

床に打ち捨てられた半紙には、待雪草が描かれていた。


              『降り積もる想い』

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