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枯れたミモザの木の下で、その男は朽ちようとしていた。

私が知らせを受け駆けつけた時には、すでに男は屋敷から抜け出し、春の風のもとにいた。

爪が黄色く濁っている。かつては澄んでいた瞳も、今は深い霧の中に潜む。おびただしい傷跡の残る肌は石灰に似て、ひび割れた唇の隙間から、糸のような呼吸が紡ぎだされる。この男はもう長くない。

先の戦争に巻き込まれ、大怪我を老いながらも市長になり、孤児院を設立し、私のような哀れな子どもの世話をした。この男が築いた地位や栄光のすべても、ここの湿った土に還ろうとしているのだろうか。

恐らく、私の姿はもう見えていない。消えかけた男の命を揺り起こすことのないよう、最後の一言を静かに呼びかけようとした。


──私は、この男ではない。


風の音かと思った。しかしそれは、はっきりと人の声をしていて、それも今、目の前の男のものに違いなかった。


──この男ではないのだ。


思わず後退りをした。男はすでに事切れている。

すずらんの葉はしなやかに揺れ、どこからか教会の鐘の音が聞こえた。

枯れ枝のようなその手から、何かがハラリと落ちる。セピア色の写真だった。品の良さげな男が2人、肩を並べて澄ましている。

私は息を呑んだ。ひとりは若かりし日の男の姿であるが、異国の服を着たもうひとりは───。

透明な春の風が梢を鳴らす。
知ってはならないのかもしれない。しかし。

写真の裏に、びっしりと敷き詰められた繊細な文字を、私は早まる心臓を抑え読み解いていった。


『物語の始まり』

4/19/2025, 7:02:24 AM