孤独を悲しむで孤悲。万葉集の授業で習ったとき、なるほどなぁと思った。
誰かを好きになるほど、人が行き着くところは一人なのだということを思い知らされるような気がするから。だから、一人でいたいという感情に従うとき、それは気の遠くなるようなことばかりの人生で自分を見失わないための時間だと思ってる。
心に悲しい傷を負った人の瞳は、不思議なほど澄んでいる。君がそうだ。アイスグレー色のそれはまるで小さな水晶玉のように、人の苦悩をしずやかに
浄化していく力があるんじゃないかと時々思う。
君の瞳は太陽の光に耐えられないから、いつもサングラスの奥にある。はじめて見たのは大学から駅までの帰り道、薄い月明かりの下で、僕は心を奪われた。ぱっと映える美人というわけでない。むしろ
いつも表情は暗くて、息を潜め、深海生物のように生きている君だった。
バイトが終わり、君とは夜に会う。君は閉館時間まで大学の図書館にいるから、僕はそれを迎えにいく。ぽつりぽつりと冷たい雨みたいな会話を重ねて、僕たちは同じ帰路をたどる。
もともと口数の少ない君だが、その日は特段に雰囲気が暗かった。サングラスを外してあらわになった瞳が微かに滲んでいる。
「愛するってどういうことだろう。」
突然そう呟いて、また沈黙を紡ぐ。
君の口からふいに飛び出た「愛」という言葉に、
僕は息が止まりそうになった。
「心に負った傷口が重なりあうことだ。多分。
1度でも深く傷ついた経験があるなら……人を愛することができるんじゃないか。」
うまく言葉にできなくて、再び押し寄せる沈黙に僕はうつむきかける。一世一代の告白をしてしまった気分だ。
でも、君は僕を見ていた。アイスグレーの瞳を丸くして、哀しげな光を揺らめかせている。
その不思議なほど澄んだ瞳に、僕はそっと手を伸ばした。
ぼんぼりの薄明かりが宵闇の神社を照らしだすと、人々のざわめきも明るくなる。
そろそろ始まってしまう。
「あ、千世ちゃんどこ行くの」
「ちょっとだけ、すぐ戻るから。」
お顔の白化粧が終わって、唇に紅を差される前に
私はたまらず自治会館を飛び出した。
ごめんねおばさん。
この地区で300年の伝統を誇る厄除けの夏祭りでは、男の子は獅子舞、女の子は稚児舞神楽を舞う。
夏が近づくとちいさな町全体の雰囲気がいそいそとして、私たちはお稽古のために、学校を早帰りしてもいいのだ。
私は最年長で、今年が最後の舞になる。
そして、同じクラスの和美くんも最後の獅子舞だ。
和美くんは幼稚園のときから一緒だけれど、何となく話した記憶もない。ずっと無口で、いつも本ばかり読んでいるから。
お稽古の時間がときどき被ると、彼が獅子頭を持っている姿をみかけることがあった。
普段はぼーっとしているみたいなのに、鋭い眼差しがちょっと怖くて、どきどきする。
獅子舞のあとに稚児舞があるから、私はちょうど
支度をしていて毎年見ることができないでいた。
彼がいったいどんな風に舞うのかを。夕空に吹く
夏風をなぞって想像するしかなかった。
和美くんは中学受験をして、来年の春には都会にいく。だから、今年が最後のチャンスなんだ。どうしても。
お囃子の合図とともに、歓声があがる。
始まったのだ。
せっかくはたいた白粉が崩れないよう慎重になりながら、人混みを縫って明かりの中心に近づいていった。
灯籠の影を落とす地面に、朗々と獅子が踊りでる。
一人舞。風流系だ。
夏の夜を切り裂く、神々しい獅子の姿。
太鼓をくくりつけて重圧感があるのに、軽々とした身のこなしは一朝一夕で身につくものじゃない。
息をするのも惜しいくらい。すごい。
獅子舞が終わる前に、私は人混みから抜け出した。なんだか涙がでそうになったから。
獅子は去る。もう私の手の届かないところまで。
こんなに満たされているのに、みなければ良かったと、思っているのかもしれない。
すごすごと引き返して、自治会館の裏口にまわる。
もうお衣装を着てしまわないと。
引戸に手をかけたとき、熱い空気を背後に感じて、振り返った。
「……千世、ちゃん」
彼がいた。まだ息を切らしている。
獅子舞が終わって、彼もちょうど戻ってきたところなんだ。毎年これくらいの時間だから。
いつもだったら「お疲れ」と笑えるのに、今日は
ぎこちない。だいいち、中途半端なお白粉顔をみられたくなかった。
「もう最後だね、私たち。」
やっと絞り出した言葉が暗い。そうだね、と彼がいい、冷たい沈黙が流れる。思いきったように、でも自然と、和美くんの息を吸う音が聞こえた。
「稚児舞、毎年みてた。綺麗だった。」
鋭い眼差しが私を見据える。痛くなるほど。
急に世界がざわめきだす。全身に炎がめぐっていくみたい。あの雄々しい、獅子の姿が。
「頑張ろうね」
もうどうしたらいいのかわからなくて、
そう早口で言いきって、逃げるように自治会館に
駆け込んだ。
頑張ろうねって、彼はもうしっかりと自分の役目を終えたのに。馬鹿みたい。
おばさんたちが待っている。私の唇に紅を差して、玉串と豊栄のお衣装を着せるために。
でも、今度こそ白粉が崩れてしまう。瞼から溢れ
落ちるものをとめることができない。
私も最後に、あなたをみられた。綺麗だった。
ただそれだけの言葉を返せばよかったのに。
私たちの夏は短すぎる。
「どうしてたのよ千世ちゃん。もう神事が始まっちゃうわよ。」
障子の向こうからおばさんたちの声がする。
濡れる頬をそっと押さえて立ち上がった。
私も最後に舞わないと。最後まで、綺麗に。
年に一度の夏祭りは、まだ始まったばかりなのだから。
「オイディプスが目を潰したのは、彼には何も見えていなかったからだ。」
私の前に舞い降りたあなたは、機械仕掛けの神様。
柔らかそうなネコ毛の髪は天使っぽいなと思っていたけれど、地上に神様が舞い降りたっていう表現にふさわしい雰囲気をまとっている。
実際あなたは、暗がりのあの世界にどっぷりと
浸かってしまっていた私を、あっという間に掬いあげてしまった。愛憎渦巻く狭い路地裏、ボロ雑巾
同然の私の前に、ただ現れただけなのに。
あれから身体の傷が戻るよりもはやく、心があなたに取り込まれていくのを止めることができない。
あなたが何を思ってオイディプスの話をしだしたのか私にはわかる。でも、私はあなたを信仰することでしか自分を信じる手段をなし得ていないから。
幸せが遠くにあると信じて、逃げられない。
双子の弟が死に、私は「それ」をつくりだした。
朽ちかけた死体を繋ぎあわせ、微量な電流を少しずつ心臓に流せば神経が動き出す。はじめは弱った魚が跳ねるようだったのが、少しずつ人間らしい動きを取り戻していった。私と瓜二つの顔で眠るそれを眺め、私は感慨深い気持ちに落ち着いていた。
これが成功すれば、死人に口なしなどとはもう言わせない。近頃めっきり増えた、凶悪な犯罪やおびただしい数奇な事件にも牽制をかけることができるかもしれない。
狂人といわれたって構わない。誰かのためになるならば、研究者冥利に尽きるというものだ。
そのためになら私は、実の弟の死体だって利用できる。
やがて瞼をあけたそれは、特別驚きもしていないようだった。腐敗がはじまっているが、私のしたことをすべて見透かしているかのような瞳まで、生前のままだ。
「どうして、僕を死なせてくれなかった?」
流暢に喋りだしたそれに、私は内心おののいた。
が、感情なくつとめてこたえる。
「人類への貢献だ。私の実験が誰かのためになるならば─」
「違うね、兄さん。自分でわからない?なら僕がふたつほど説明してあげようか。」
途端に言葉を遮り、それは今にも崩れ落ちそうな身体を起こした。腐った体液が私の頬に飛び散る。
恐ろしい予感がした。
「ひとつは、僕を激しく憎んでいるから。幼い頃から、僕と兄さんにたいする周囲の扱いの差は歴然としていたものね。四六時中研究に明け暮れる兄さんより、婚約者がいて、普通に優等生の僕の方が優れてみえたみたい。父さんや母さんからの愛を独占した僕を、殺したいほど憎んでいたんだろう。だから墓を掘り起こしてまでして、僕の尊厳を踏みにじったんだ。」
「──もうひとつは、何だ。」
全身に冷たいマグマが流れている。爆発することもできず、私の身体を蝕みつづけた、愚かな劣情。
血に濡れたその唇が、赤い三日月に歪んだ。
「そんな禁忌を犯してしまうほど、僕を愛しているからさ。僕を見るその目をみればわかるよ。」
ずるりと顔が溶けてゆく。私と同じその顔が。
皮膚が流れ落ち、瞳が濁る。それはもう死体に戻ろうとしていた。
暗がりの研究室に、悪魔の声を永遠にこだまさせて。
「僕のためだとお言いよ。自分のためだと。」