梅雨空のターミナルに、偶然にも君はいた。
数年振りに会った君はすっかり大人になっていて、
グレーのスーツ姿がまぶしい。
「久し振り。」
疲れ果てた顔の君からは、喧騒めいた都会の風の
匂いがする。それでも、水面のように静かに揺らぐ瞳は、泣きたくなるほどに10代の頃のままだ。
君の瞳は、僕がついに触れることのできなかった
何かにまで届くみたいに、いつも固くてまっすぐな光に充ちている。
夢を切り捨て、東京に行くと僕に告げたときも、
君は同じ瞳をしていた。僕は何も言わなかった。
言えなかった。
それから高校を卒業して以来、君と会うことはなかったのだ。
それでも、綻んだ思い出を繋ぎあわせるように
ひと言、ふた言と交わしていくうちに、蒼白い君の表情がほどけていく感触がした。
「僕は変わらないよ。いつまでも子どもじみた夢ばかりみて、君のような大人にはなれなかった。」
自嘲気味に笑う僕の目をみて
君も初めて、さみしげに微笑む。
「羨ましいやつだよ。」
ああ、君のその瞳だけは、あの頃と同じ質量を感じさせられるというのに。
今、僕には同じ夢を追いかける仲間がいる。かつては君とみた、愚かで若い夢を。恋人もできた。
それなのに、胸の片隅には、君のいた熱の痕が今も燻り続けている。
その熱をさらけだしてしまうには、あまりにも時は経ってしまった。若く青い日々は刻々と去りゆく。
僕たちの道は、たがえたのだ。
「じゃあ。」
君はいなくなる。灰色の人混みに、君の背中はたちまち溶け込んでいってしまう。
僕が僕を生きているように、君も君を生きていくんだろう。これからも、空しいほどに。
夏の雨はやみ、時刻は6時になろうとしていた。
『友情』
サナトリウムで療養することになった、
妻の身辺整理をしているときのことだった。
心を閉ざしてから、彼女は子ども部屋で1日のほとんどを過ごしていた。
机の上に残された大量のスケッチブックには、彼女が描いたクロッキーやエスキースでびっしりと埋めつくされており、そのどれもが未完成だ。
ときどきまっさらなページもあるそれらを、
僕はもくもくとポリ袋の中へいれていった。
そうしているうちに、ふと、なめらかな机の表面に何か書かれているのをみつけた。まるで、小学生のいたずらな落書きのように。妻の字だ。
それをみて、僕は今度こそ頭が真っ白になった。
『 過去につれていってくれるものが記憶
未来へつれていってくれるものが夢 』
H.G.ウェルズの小説『タイムマシン』のなかの台詞だった。結婚前に、僕が彼女にあげた小説だ。
僕は目眩のする思いで、膝が震え、それでも何とか立っていた。
望んだ結婚ではなかった。少なくとも、彼女にとっては。当時、彼女には恋人がいた。地位は低いが、美しい男だった。
家柄で結びあわされた婚姻関係だったとしても、
僕は彼女を愛していたし、愛せることを証明したかった。
それでも、僕の存在により、いっそう熱病のような恋に浮かされている2人をみて、邪悪な魔が差したのだ。彼女を妻にできるのなら、あの男から永遠に
奪ってしまえるのなら、後先もかえりみなかった。
僕と彼女はついに結婚し、まもなくあの男は自身に刃を突き立てた。
恋人の死を知ってからというもの、彼女の命の輝きは失せていってしまったのだと思っていた。
が、それは違うと、ずっと僕の恐れていたことが
残酷なまでにはっきりとしてしまった。
君のなかで、あの男はまだ生きているのだ。
あの男の体温を記憶して、熱病のような恋の続きを夢にみている。君は心を閉ざしてしまったのではなかった。そうやって、あの男と逢っていたのか。
もしもタイムマシンがあったのなら、君の身体も
今ここにいないだろう。真っ先にあの男のもとにいって、二度と帰ってこない。
わかっていたことだった。
もう、僕の敗北だ。
私の名前に特に由来はなくて、画数も適当、というか考えていない。母が私を胎内に宿しているとき、いつからから自然と決まっていた名前だった。
名づけに対するさっぱりとした姿勢も含めて自分の名前を気に入っているし、生きていると意外と名前で褒められることが多い。
「自分の名前の由来を聞いてみよう」の時間ではびっくりした。みんな凄い。気合いが入ってる。
だから私も、とってつけたような由来をアドリブで発表。ストーリー仕立てにしてしまったからか、
何だか大層な名前のように思えてきて急に不安になった。ただ生きているだけで、愛がプレッシャーに誤変換されてしまうような錯覚がした。
名前はその人の示しになるけれど、愛をはかる手段じゃないのかもって、そのとき気づいた気がする。
冷たい葬式の空に、清らかな煙がたっていた。
君はいつもと同じ、あどけない笑顔をみせていて、ときどき親戚から注意をされていたほどだ。
「すごい煙だねえ。」と、目を細める君の、
その小さな耳についていた黒真珠がきらりと光る。
はじめて、君の涙をみてしまったのだと思った。
思い出にもならない、遠い日の記憶。
モン・サン・ミッシェルに行った2月、雲ひとつ流れていない美しい冬空だった。
澄みきったノルマンディーの空気はダイヤモンド、
てっぺんで金色に輝く大天使ミカエルが、空の青さを切り裂いているようにみえた。
こんなうだる暑さでも、まばゆい青空をみると
身体が空に近づいたような気がした、神秘的な島の頂上を思い出す。