「もうこの戀は終わりにしませう」
祖父の遺品整理をしているとき、古びた手帳に挟まっていた、小さな紙切れをみつけた。
さらさらと流れるように美しい筆跡。
祖父の字だろうか。それとも。
洋紙も墨も何もかもが色褪せて、触れば崩れ落ちてしまいそうなのに、この1文はまるでまだ生きているみたいに、したたかな鼓動を打っている。
ためらったけれど、その紙切れを祖母にみせた。
痴呆のはじまりかけていた祖母は、丸眼鏡の奥の瞳を滲ませて、やがて低く呟いた。
「これはね、お義父様の字よ。」
たった一言そういって、祖母はまた遠い目をする。
これ以上は何も聞けない。
祖父の父、明治生まれの曾祖父は、私の記憶の片隅に眠っている。みみずくのようにじっとしていて、笑顔をみせない堅物な人だった。祖父と話しているところさえ印象にない。
なぜ、曾祖父が書き残したものが、祖父の手帳にあったのか。いつも片身離さず持ち歩いていた、
祖父の分身でもあるほどのこの手帳に。
じきに、あとを追うようにして祖母が逝き、
この紙切れの詳細はついにわからない。
「この戀」とは何だったのか。
誰の、何の恋だったのか。
でも「これでようやく終わったのね。」とも思った。知っている者はもうこの世を去り、美しい筆跡も沈黙しつづける。
電話不精、メール不精ときて、LINE不精。
時代は移り変わる。
使うツールの性能がどんなに進化しても、
連絡が遅い人はいつの時代もアップデートしない。かくいう私がそうだ。いつか友だちを失いそう。
そして私以上に、彼がひどい。彼の周辺だけ回線がトリップでもしてるんじゃないかと思う。伝書鳩のほうがよっぽど利口だ。かわいいし。
おかげさまでたった1件、新着がはいっただけで胸がとびあがる騒ぎだ。ああよかった元気なのねなんて、大正時代の文通じゃあるまいしと思いながら、LINEを使っているのにも関わらない、この色褪せたアナログ感がだんだんと癖になってきている。
いっそ貴重だ、この人間。
今日も「これ、美味しい」の一言と、水羊羹の写真が唐突に送られてきた。およそ3週間越しのLINE。
私がお返事するのは多分2日後くらい。本当に好きあっているのかと、友だちから呆れられる。
しょうがない。話したいときに話して、黙りたいときに黙る、不安定な時間の流れが似ているから。
いつまでも時代錯誤な私たち。
目をとじれば、霞む闇の向こうでぼんやり浮かびあがる、つぶらな星たちに青い砂漠。もういないあの人や、薄紅の空。
そのすべてがきらめく雫を滴らせていて、
滔々と流れる時の虚しさすら、慈しみたい気持ちにさせられるというのに。
目が覚めると、何もない。
一人でミュージカルを観に行くこと。
とびっきりの悲劇のやつを。
悲劇が好きなのは、心をより強く動かされるから。
怒りや悲しみ、負のエネルギーをのせた歌には
日常生活を送っているだけでは得られないような、尋常ではないパワーがある。
自分の力では変えられない運命、冤罪、もう戻れない後悔。それでも人が生きているっていう、執着に近い生命の力強さを感じる。
もはや歌が上手いか下手かの次元を越えた、演者自身の人生や心がストレートに刺さってくるのが悲劇の歌だ。
その衝撃を仲間と分かち合うのもいいけれど、一人で咀嚼して受け止めて、感じたままにひとりじめしたいというのもある。皆が泣いているところで泣かなくてもいいし、泣いていないところでも思いきし泣けるのがいい。天の邪鬼っぽいけれど。
そう、一人観劇の何がいいって、ミュージカルを一人で観ていても浮かないどころか、一人で号泣していてもまったく違和感がないのが面白い。
そんな空間、まず日常にはない。異様だ。
幕が閉じ、やりきった、という笑顔のカーテンコール。会場はずびずびと鼻を啜って、やまないスタンディングオベーション。
一人を求めてきたはずなのに、演者さんも客席も、ああ、私たち今ひとつになってると思える。
一人観劇は私にとっての当たり前だけれど
この感動は当たり前ではないんだな。
地元の星まつりには何だかんだと行ってしまう。
夏の夜空を覆い尽くす、くす玉や吹き流し、さらさら揺れる笹の葉には、いろとりどりの短冊と願い。
明るい夜に、星はすっかりみえない。
でも、織姫と彦星はどうせ雲の上で会っている。
お祭りの味がするぶた玉をちまちまと食べながら
7日の夕方だから「七夕」なのかと、今まで考えもしなかった由来が気になりだす。
金銀の砂のように散らばる天の川をいつかみてみたいものだけれど。