ぼんぼりの薄明かりが宵闇の神社を照らしだすと、人々のざわめきも明るくなる。
そろそろ始まってしまう。
「あ、千世ちゃんどこ行くの」
「ちょっとだけ、すぐ戻るから。」
お顔の白化粧が終わって、唇に紅を差される前に
私はたまらず自治会館を飛び出した。
ごめんねおばさん。
この地区で300年の伝統を誇る厄除けの夏祭りでは、男の子は獅子舞、女の子は稚児舞神楽を舞う。
夏が近づくとちいさな町全体の雰囲気がいそいそとして、私たちはお稽古のために、学校を早帰りしてもいいのだ。
私は最年長で、今年が最後の舞になる。
そして、同じクラスの和美くんも最後の獅子舞だ。
和美くんは幼稚園のときから一緒だけれど、何となく話した記憶もない。ずっと無口で、いつも本ばかり読んでいるから。
お稽古の時間がときどき被ると、彼が獅子頭を持っている姿をみかけることがあった。
普段はぼーっとしているみたいなのに、鋭い眼差しがちょっと怖くて、どきどきする。
獅子舞のあとに稚児舞があるから、私はちょうど
支度をしていて毎年見ることができないでいた。
彼がいったいどんな風に舞うのかを。夕空に吹く
夏風をなぞって想像するしかなかった。
和美くんは中学受験をして、来年の春には都会にいく。だから、今年が最後のチャンスなんだ。どうしても。
お囃子の合図とともに、歓声があがる。
始まったのだ。
せっかくはたいた白粉が崩れないよう慎重になりながら、人混みを縫って明かりの中心に近づいていった。
灯籠の影を落とす地面に、朗々と獅子が踊りでる。
一人舞。風流系だ。
夏の夜を切り裂く、神々しい獅子の姿。
太鼓をくくりつけて重圧感があるのに、軽々とした身のこなしは一朝一夕で身につくものじゃない。
息をするのも惜しいくらい。すごい。
獅子舞が終わる前に、私は人混みから抜け出した。なんだか涙がでそうになったから。
獅子は去る。もう私の手の届かないところまで。
こんなに満たされているのに、みなければ良かったと、思っているのかもしれない。
すごすごと引き返して、自治会館の裏口にまわる。
もうお衣装を着てしまわないと。
引戸に手をかけたとき、熱い空気を背後に感じて、振り返った。
「……千世、ちゃん」
彼がいた。まだ息を切らしている。
獅子舞が終わって、彼もちょうど戻ってきたところなんだ。毎年これくらいの時間だから。
いつもだったら「お疲れ」と笑えるのに、今日は
ぎこちない。だいいち、中途半端なお白粉顔をみられたくなかった。
「もう最後だね、私たち。」
やっと絞り出した言葉が暗い。そうだね、と彼がいい、冷たい沈黙が流れる。思いきったように、でも自然と、和美くんの息を吸う音が聞こえた。
「稚児舞、毎年みてた。綺麗だった。」
鋭い眼差しが私を見据える。痛くなるほど。
急に世界がざわめきだす。全身に炎がめぐっていくみたい。あの雄々しい、獅子の姿が。
「頑張ろうね」
もうどうしたらいいのかわからなくて、
そう早口で言いきって、逃げるように自治会館に
駆け込んだ。
頑張ろうねって、彼はもうしっかりと自分の役目を終えたのに。馬鹿みたい。
おばさんたちが待っている。私の唇に紅を差して、玉串と豊栄のお衣装を着せるために。
でも、今度こそ白粉が崩れてしまう。瞼から溢れ
落ちるものをとめることができない。
私も最後に、あなたをみられた。綺麗だった。
ただそれだけの言葉を返せばよかったのに。
私たちの夏は短すぎる。
「どうしてたのよ千世ちゃん。もう神事が始まっちゃうわよ。」
障子の向こうからおばさんたちの声がする。
濡れる頬をそっと押さえて立ち上がった。
私も最後に舞わないと。最後まで、綺麗に。
年に一度の夏祭りは、まだ始まったばかりなのだから。
7/28/2023, 4:43:33 PM