電話不精、メール不精ときて、LINE不精。
時代は移り変わる。
使うツールの性能がどんなに進化しても、
連絡が遅い人はいつの時代もアップデートしない。かくいう私がそうだ。いつか友だちを失いそう。
そして私以上に、彼がひどい。彼の周辺だけ回線がトリップでもしてるんじゃないかと思う。伝書鳩のほうがよっぽど利口だ。かわいいし。
おかげさまでたった1件、新着がはいっただけで胸がとびあがる騒ぎだ。ああよかった元気なのねなんて、大正時代の文通じゃあるまいしと思いながら、LINEを使っているのにも関わらない、この色褪せたアナログ感がだんだんと癖になってきている。
いっそ貴重だ、この人間。
今日も「これ、美味しい」の一言と、水羊羹の写真が唐突に送られてきた。およそ3週間越しのLINE。
私がお返事するのは多分2日後くらい。本当に好きあっているのかと、友だちから呆れられる。
しょうがない。話したいときに話して、黙りたいときに黙る、不安定な時間の流れが似ているから。
いつまでも時代錯誤な私たち。
目をとじれば、霞む闇の向こうでぼんやり浮かびあがる、つぶらな星たちに青い砂漠。もういないあの人や、薄紅の空。
そのすべてがきらめく雫を滴らせていて、
滔々と流れる時の虚しさすら、慈しみたい気持ちにさせられるというのに。
目が覚めると、何もない。
一人でミュージカルを観に行くこと。
とびっきりの悲劇のやつを。
悲劇が好きなのは、心をより強く動かされるから。
怒りや悲しみ、負のエネルギーをのせた歌には
日常生活を送っているだけでは得られないような、尋常ではないパワーがある。
自分の力では変えられない運命、冤罪、もう戻れない後悔。それでも人が生きているっていう、執着に近い生命の力強さを感じる。
もはや歌が上手いか下手かの次元を越えた、演者自身の人生や心がストレートに刺さってくるのが悲劇の歌だ。
その衝撃を仲間と分かち合うのもいいけれど、一人で咀嚼して受け止めて、感じたままにひとりじめしたいというのもある。皆が泣いているところで泣かなくてもいいし、泣いていないところでも思いきし泣けるのがいい。天の邪鬼っぽいけれど。
そう、一人観劇の何がいいって、ミュージカルを一人で観ていても浮かないどころか、一人で号泣していてもまったく違和感がないのが面白い。
そんな空間、まず日常にはない。異様だ。
幕が閉じ、やりきった、という笑顔のカーテンコール。会場はずびずびと鼻を啜って、やまないスタンディングオベーション。
一人を求めてきたはずなのに、演者さんも客席も、ああ、私たち今ひとつになってると思える。
一人観劇は私にとっての当たり前だけれど
この感動は当たり前ではないんだな。
地元の星まつりには何だかんだと行ってしまう。
夏の夜空を覆い尽くす、くす玉や吹き流し、さらさら揺れる笹の葉には、いろとりどりの短冊と願い。
明るい夜に、星はすっかりみえない。
でも、織姫と彦星はどうせ雲の上で会っている。
お祭りの味がするぶた玉をちまちまと食べながら
7日の夕方だから「七夕」なのかと、今まで考えもしなかった由来が気になりだす。
金銀の砂のように散らばる天の川をいつかみてみたいものだけれど。
見返りは求めていない。与えたぶんだけ欲しいとも思わない。仲良くなったのは理由があったんだろうけれど、思い出せない。
学生時代、誕生日にピアスをあげたらとても喜んでいたのを覚えている。それはあなたらしくなかった。まだ耳に穴あいてなかったし。
ふせた睫毛や、銀色のピアスを揺らすあなたのふしばった指に、私はいつもドキドキしていた。
留学するというあの人に最後にあった日、さみしさよりも不安がまさっていた私に、彼は言った。
「君との友情は失いたくない。これからも。」
寡黙なあの人の言葉が、私の心にすとんとおさまった。彼への尊敬、憧れ、悲しみ、怒り、いつか抱いた胸の高まり。
いつしか、私の霧がかった初恋は、何にもかえがたい友情に落ち着いていた。
今は寒い国に住んでいる、あの人。
元気にやっているかな。