ずっとこの日を待っていた。
僕にやさしく触れてくれた君の白い手は、もう朽ち果てている。そうか、君はこのまま土に還るんだ。
その骨は、いずれ夜空に碎け散って無数の星になる。そうして次の世界の夜に生きるんだね。
金糸の髪は、地上に差す太陽の光だ。薔薇色に染まっていた君の頬。柔らかい皮膚の下に流れた血潮は、いつかほんもののの花になる。
君を拒んだ暗い世界も、遠くからみれば光の森にいるみたいなんだろう。醜くて、残酷で、かけがえのない世界だ。
僕の世界は、君とともにもう終わった。
今はただ、君の隣で眠りたい。
きっとこれからも、世界は光に包まれていて、人々は退屈でいとしい日々を生き、まるで僕たちのことなんてなかったかのように、陽が昇っては沈んでゆくんだ。
いつか僕らの朽ちた身体が引き剥がされるとき、それは終わりではなくてはじまりだね。
今度こそ、新しく平等に生まれ変わった世界に生きることを夢見て。
20℃50%。
ピアノにとって理想の数字だ。
つまり、紫陽花が雨にしとど濡れるこの時期は
音が狂いやすくなる。人間も同じようなものだ。
たとえば雨の日にばかり、遠い昔にやめてしまったピアノを弾きたくなることとか。湿ったピアノは鈍く響いて、私の指ものろのろと、思い出を探るように動くばかり。
低気圧で死にかけの私と、憂鬱なピアノの音色。
その不調の重なりが妙に心地よくて、薄ら暗い曇天の心模様にマッチするんだ。
だから梅雨なんて、まるで生きた心地がしないよ。
そういいながら、あなたは今日もピアノを弾いている。ほとほと参っているような力ない微笑みを浮かべ、それでもあなたの繊細な指は、正確に音を叩く。
雨の日のあなたのピアノを聴くたびに、私は胸の高鳴る想いがする。「梅雨だからね。君の調子も狂ってるのかもしれない。」なんて、あなたは笑って返すんだろう。
僕は今日も船を漕ぐ。3年前、この海で姿を消した彼女を探して。
つまらない喧嘩をした。この先に待っていた僕らの未来を考えたら、本当に小さくてくだらないことを言い合った。
ずっと島で育ってきた彼女にとって、この青い海とは離れがたいものだったのだ。結婚したら本土で一緒に暮らせるだなんて勝手に思って、僕は彼女に酷いことを言ってしまった。
「もうここに戻ってこれないなんて、そんなの絶対に嫌よ。」
泣きながら飛び出した彼女が向かったのは、確かにこの海だ。僕はあとを追いかけたのに、彼女の姿はどこにもなかった。
呆然とする僕の前にはただ、恐ろしいくらい静かに、暗がりの海が凪いでいた。
あれから僕は島に残って、船を漕ぎつづけている。君は、僕を許してないんだろう。だから帰ってこないんだ。この海のどこかで、君はひとり息を潜めているのに違いない。
今日は、いつもより穏やかな曇り空が広がっていた。冷たい風が心地よく、このまま君を探してどこまでも遠くにいってしまいたい気がした。
ふと、船の底が揺れる。
あ、と思ったときには、僕の身体は水中にいた。
青空のように遠のいていく水面に、透明な泡が吸い寄せられる。息ができなくて、重い身体はずんずんと暗い底に沈んでいく。
あがこうとする本能とは裏腹に、意識は自分を手放していく。僕を押し潰してきた後悔とともに。
ごめんね
懐かしい彼女の声が、聞こえた気がした。
彼は中2の夏に転校してきた。
伏せる瞼にどこか影のある真っ白な美少年で、女子も男子も彼にドキドキしていた。
半袖からのびる腕には、大きな傷跡があった。
赤黒いそれは生まれつきのようにも、何かひどい事故にあったかのようにもみえて、誰も彼のそれに触れることはなかったのだ。
隣の席だった私が、思わず聞いてしまうまでは。
「その傷、どうしたの?」
彼は、その綺麗な顔をこちらに向けることなく、淡々と話した。
「昔、猫を殺したんだ。」
窓にはりつく蝉が、私の耳を蝕むようにけたたましく鳴いていた。
「それからこの傷ができた。どんどん大きくなっている。もう隠すことも諦めた。」
彼はそれから、数ヵ月もたたないうちにまた転校してしまった。私はしばらく、半袖姿の彼が目に焼きついたままでいた。
今でも夏がくると、あの猫の目の形のような、おぞましい傷痕を思い出してしまう。
君の天国は私の地獄のもとにできている。
貴族の君と貧しい労働者の私。柔らかくてしなやかな君の手と、あかぎれだらけの私の手。
はなから生きる世界が違うのだ。君のその柔らかさに私は癒されて、なけなしの自尊心を傷つけられる。
君はなぜか私のことを好きになってくれたみたいだけど、心と身体が求めたって私たちがわかりあえることは一生ないよ。
少なくとも、君が幸福であるうちは。
せめて君の地獄が私の天国を支えてくれたのなら、私たち初めて目線があうのに。砂金ほどの君の悩みも聞いてあげられるのに。