。。

Open App
6/2/2023, 9:19:35 AM

20℃50%。
ピアノにとって理想の数字だ。

つまり、紫陽花が雨にしとど濡れるこの時期は
音が狂いやすくなる。人間も同じようなものだ。

たとえば雨の日にばかり、遠い昔にやめてしまったピアノを弾きたくなることとか。湿ったピアノは鈍く響いて、私の指ものろのろと、思い出を探るように動くばかり。

低気圧で死にかけの私と、憂鬱なピアノの音色。
その不調の重なりが妙に心地よくて、薄ら暗い曇天の心模様にマッチするんだ。

だから梅雨なんて、まるで生きた心地がしないよ。


そういいながら、あなたは今日もピアノを弾いている。ほとほと参っているような力ない微笑みを浮かべ、それでもあなたの繊細な指は、正確に音を叩く。

雨の日のあなたのピアノを聴くたびに、私は胸の高鳴る想いがする。「梅雨だからね。君の調子も狂ってるのかもしれない。」なんて、あなたは笑って返すんだろう。



5/29/2023, 10:54:40 PM

僕は今日も船を漕ぐ。3年前、この海で姿を消した彼女を探して。

つまらない喧嘩をした。この先に待っていた僕らの未来を考えたら、本当に小さくてくだらないことを言い合った。

ずっと島で育ってきた彼女にとって、この青い海とは離れがたいものだったのだ。結婚したら本土で一緒に暮らせるだなんて勝手に思って、僕は彼女に酷いことを言ってしまった。


「もうここに戻ってこれないなんて、そんなの絶対に嫌よ。」


泣きながら飛び出した彼女が向かったのは、確かにこの海だ。僕はあとを追いかけたのに、彼女の姿はどこにもなかった。

呆然とする僕の前にはただ、恐ろしいくらい静かに、暗がりの海が凪いでいた。

あれから僕は島に残って、船を漕ぎつづけている。君は、僕を許してないんだろう。だから帰ってこないんだ。この海のどこかで、君はひとり息を潜めているのに違いない。

今日は、いつもより穏やかな曇り空が広がっていた。冷たい風が心地よく、このまま君を探してどこまでも遠くにいってしまいたい気がした。

ふと、船の底が揺れる。
あ、と思ったときには、僕の身体は水中にいた。

青空のように遠のいていく水面に、透明な泡が吸い寄せられる。息ができなくて、重い身体はずんずんと暗い底に沈んでいく。

あがこうとする本能とは裏腹に、意識は自分を手放していく。僕を押し潰してきた後悔とともに。



ごめんね



懐かしい彼女の声が、聞こえた気がした。


5/29/2023, 10:11:39 AM

彼は中2の夏に転校してきた。
伏せる瞼にどこか影のある真っ白な美少年で、女子も男子も彼にドキドキしていた。

半袖からのびる腕には、大きな傷跡があった。
赤黒いそれは生まれつきのようにも、何かひどい事故にあったかのようにもみえて、誰も彼のそれに触れることはなかったのだ。

隣の席だった私が、思わず聞いてしまうまでは。


「その傷、どうしたの?」


彼は、その綺麗な顔をこちらに向けることなく、淡々と話した。


「昔、猫を殺したんだ。」


窓にはりつく蝉が、私の耳を蝕むようにけたたましく鳴いていた。


「それからこの傷ができた。どんどん大きくなっている。もう隠すことも諦めた。」


彼はそれから、数ヵ月もたたないうちにまた転校してしまった。私はしばらく、半袖姿の彼が目に焼きついたままでいた。

今でも夏がくると、あの猫の目の形のような、おぞましい傷痕を思い出してしまう。



5/28/2023, 1:54:37 AM

君の天国は私の地獄のもとにできている。

貴族の君と貧しい労働者の私。柔らかくてしなやかな君の手と、あかぎれだらけの私の手。
はなから生きる世界が違うのだ。君のその柔らかさに私は癒されて、なけなしの自尊心を傷つけられる。

君はなぜか私のことを好きになってくれたみたいだけど、心と身体が求めたって私たちがわかりあえることは一生ないよ。
少なくとも、君が幸福であるうちは。

せめて君の地獄が私の天国を支えてくれたのなら、私たち初めて目線があうのに。砂金ほどの君の悩みも聞いてあげられるのに。

5/26/2023, 1:00:58 PM

潮汐のはざまに、私はあなたをみつけた。
まるで宝物のように、あなたは白い砂のうえに横たわっていたのだ。

あなたは人間じゃない。真珠のような肌や冷たい瞳は夕空に透けて消えてしまいそうに、淡いきらめきを秘めている。

あれからも潮はひいては満ちていくけれど、あなたの姿をみたのはあれきりだ。あなたは今でも、私の瞼の裏に潜んでいる。

あなたは、水中都市の忘れ物だったのだろうか。
青い海に沈んでゆく街を、ずっとひとりで眺めていたんだろうか。たゆたえども沈むこともなく、あなたは孤独の海をさ迷っているのか。

自然はいくつもの神秘を可能にする。
月の引力は太陽や地球と複雑に絡みあい、あなたの姿を露にした。

だから月に願いをかけてみる。
あなたが私の幻でないことをいまいちど証明してほしい。


Next