あの小さなコンサートホールで、彼のグァルネリは高らかに唄っていた。1703年ものだというそれはべっこう色の艶々とした輝きを放って、4本の弦は胎動のように震える。150人ほどの意識が一点に張り詰まる空間で、彼の奏でる音は、確かに生きていた。
ヴァイオリンなんて眠くなってしまうと思っていたのだ。クラシックなど微塵も触れたことがなかったのに、あの日、私の命は絶え間のない音楽に揺さぶられつづけた。
「300年前の音を聴いてたんだね。」
帰り道、思わず呟いた私に彼はやさしく微笑んだ。
「バイオリンは年月を重ねて弾きこむほど豊かな音になっていくんだよ。乾燥したり、繊維がくっついたりして、日に日に少しずつ変化しているんだ。」
柔らかく噛み砕かれた彼の言葉を、私はいささか信じられないような気持ちで聞いていた。
彼の演奏は、その界隈で「歌うヴァイオリン」と評されている。繊細かと思えばはっとするほど重厚な音色を響かせて、まるで舞台でアリアを歌う女性の声のようだと確かに思ったけれど、その音が変わりつづけていってしまうなんて、本当に人間みたいだ。
「じゃあ昨日の音も、明日の音も、私は知らないんだ。」
彼のコンサートは3日間で、私はちょうどその中日に行ったわけだ。
昨日はどんな繊細な音色を響かせたのだろう。明日はより磨き上げられたビブラートを奏でるのだろうか。
でも私は、今日の音を知れてよかった。
あれから10年がたった今でも思う。
生まれ変わったら水になりたいと思っていた。
水は死なないから。
山に染み、川に流れて、海とひとつになり、雲になってまた山に降る。いろんな命をぐるぐると廻る。
どれだけ汚れてしまっても、またいつか透明になってかえってこれるから。
それはおばあちゃんの家の壁に描かれていた。
色とりどりの絵の具が輝き、すももやあけびがいっぱいに実る楽園のような壁画の中に、私はある日、とぷん、と入ってしまったのだ。
羊や熊やカラス、いろんな動物たちがいて、そして私と同い年くらいの男の子と出会った。
「君、ひとり?」
「そうよ」
「じゃあ遊ぼうよ」
それからは、めくるめく月日を彼と過ごした。
お腹が空いたら甘い木苺を頬張って、川のせせらぎを2人でどこまでも追いかけた。緑色のそよ風は、いつもキラキラと光っていた。
虚弱体質で、一緒に遊ぶ友達もいなかった私にとって、そこは唯一の世界だった。
ある夏の午後、いつものように彼と草むらで寝転んでいると、彼がふいに立ち上がった。その横顔が少しだけさみしげにみえた。
「僕、もう帰らないと。」
それは別れを意味しているのだと直感した。
いつかは、そんな日が来るのだとは思っていた。でもあんまりに突然のことで、私は泣いた。今まで誰の前でも泣いたことがなかったけれど、小さな子どもみたいに泣きじゃくり続けた。
気づいたら私は壁の外だった。手を伸ばしても、冷たい壁に触れるばかりだ。私は泣きつづけ、悲しくて悲しくて、今までのことをすべて、おばあちゃんとお母さんに打ち明けた。
お母さんは私の頭をやさしく撫でた。
「来年の春に、あなたはお姉さんになるのよ。弟が生まれるの。」
おばあちゃんも私をそっと抱き締めてくれた。
「素敵な子ども時代を過ごしたのね。」
あれから、壁の絵には入れることは二度となかった。
愛はひとりでも耐えられるけれど、恋はとても耐えられないことがわかった。
そのことに気づくのに、70年の月日をかけてしまったわけだ。本当に、ひどく長生きをしてしまった。
──最後に、私を描いてほしいの。
あの日、君からの頼みを断ってしまったとき、君のみせた寂しげな微笑みが、今でも冷たい石のように深く沈んでいる。
小さくて美しい、光のバレリーナだった。脚を怪我して踊れなくなってしまった君は、絵の中でもういちど踊りたかったんだろう。
僕はおじけついたのだ。僕が踊り子の絵を描くのは、それがよく売れるからだ。
ただ生活のためだけに踊り子の絵を描き続け、皮肉にも『妖精の画家』なんて呼ばれもついた人間が、君のまばゆさを描くには値しないと思っていた。
──私、もう踊れないけれど、あなたの絵のなかでならきっと本当の妖精みたいになれると思ったの。
その後すぐに、パトロンに身を買われて表舞台から消えた君と、再び逢うことはついに叶わなかった。
それからも、踊り子の絵は飛ぶように売れた。
僕の名はサロンで知れ渡り、今日にいたるまで確固たる地位を築き上げた。
でも、今だに君の絵は描けていない。リウマチになった僕の手はもう筆を握ることはできず、僕にとって、君は人生最期の光になった。
いつまでも未完の妖精なのだ。
そして僕は今日もひっそりと、君の墓に花をやる。
夜は海の深さに似ている。決して人間の手に触れられない神秘の色を宿しているのだと、あの人はよく語っていた。
「夜に泳ぐクジラを君はみたことがある?」
これもあの人の口癖だった。真夜中の眠る街を、
一頭のクジラが泳いでいるのだそうだ。私はもちろん「あるわけがないわ」と言う。
2年前に光を失ってから、あの人はいつも夜の空や静かな海に生きているのだろうかと思わせられる。
少なくとも、目の見える私の知らない色をあの人は感じているのだろう。きっと誰よりも、空や海の底を知っているのに違いないと思わせる、そんなしなやかな強さがあの人にはあった。
もう何も映っていないはずなのに、暗闇で私のほうをじっと見据えているその瞳が、ぼうっと青く光ってみえる。それが私は好きだった。
「終電ですよ」
はっと意識が戻される。誰もいない車内。
そうだ、ここはあの人の部屋ではない。水曜日の夜、上司たちとの飲み会帰り。無理やり流し込んだビールの味がまだ舌に残っている。
とぼとぼと駅を降りて、真夜中の静かな風に押し流される。私はいつまで、こうやってひとり歩き続けていくんだろうと、ふと思った。あの人がいなくなって、もう何年も経ったというのに。
冷えた心に蓋を閉じて歩いていた、その時。
閑散としたロータリーを走り抜けるように、ひとつ冷たい夜風が吹いた。
ピューイ────
それは通り抜けていくように、聴こえたのだ。
目を凝らしてみたけれど、何台かの車が通りすぎてゆくだけだった。風と車の音だったのかもしれない。でも、確かに見える気がした。
青く沈んだロータリーを悠々と泳ぐ、
月のようなクジラの姿が。
思わず夜空を仰げば、水面に揺れる光のようにぱらぱらと星が瞬いている。その切ない輝きが、視界の端に滲んでゆく。
あの人の言葉は、私をいつでも、真夜中の色に触れさせてくれる。