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あの小さなコンサートホールで、彼のグァルネリは高らかに唄っていた。1703年ものだというそれはべっこう色の艶々とした輝きを放って、4本の弦は胎動のように震える。150人ほどの意識が一点に張り詰まる空間で、彼の奏でる音は、確かに生きていた。

ヴァイオリンなんて眠くなってしまうと思っていたのだ。クラシックなど微塵も触れたことがなかったのに、あの日、私の命は絶え間のない音楽に揺さぶられつづけた。


「300年前の音を聴いてたんだね。」


帰り道、思わず呟いた私に彼はやさしく微笑んだ。


「バイオリンは年月を重ねて弾きこむほど豊かな音になっていくんだよ。乾燥したり、繊維がくっついたりして、日に日に少しずつ変化しているんだ。」


柔らかく噛み砕かれた彼の言葉を、私はいささか信じられないような気持ちで聞いていた。

彼の演奏は、その界隈で「歌うヴァイオリン」と評されている。繊細かと思えばはっとするほど重厚な音色を響かせて、まるで舞台でアリアを歌う女性の声のようだと確かに思ったけれど、その音が変わりつづけていってしまうなんて、本当に人間みたいだ。


「じゃあ昨日の音も、明日の音も、私は知らないんだ。」


彼のコンサートは3日間で、私はちょうどその中日に行ったわけだ。

昨日はどんな繊細な音色を響かせたのだろう。明日はより磨き上げられたビブラートを奏でるのだろうか。

でも私は、今日の音を知れてよかった。


あれから10年がたった今でも思う。



5/22/2023, 10:40:26 PM