夜は海の深さに似ている。決して人間の手に触れられない神秘の色を宿しているのだと、あの人はよく語っていた。
「夜に泳ぐクジラを君はみたことがある?」
これもあの人の口癖だった。真夜中の眠る街を、
一頭のクジラが泳いでいるのだそうだ。私はもちろん「あるわけがないわ」と言う。
2年前に光を失ってから、あの人はいつも夜の空や静かな海に生きているのだろうかと思わせられる。
少なくとも、目の見える私の知らない色をあの人は感じているのだろう。きっと誰よりも、空や海の底を知っているのに違いないと思わせる、そんなしなやかな強さがあの人にはあった。
もう何も映っていないはずなのに、暗闇で私のほうをじっと見据えているその瞳が、ぼうっと青く光ってみえる。それが私は好きだった。
「終電ですよ」
はっと意識が戻される。誰もいない車内。
そうだ、ここはあの人の部屋ではない。水曜日の夜、上司たちとの飲み会帰り。無理やり流し込んだビールの味がまだ舌に残っている。
とぼとぼと駅を降りて、真夜中の静かな風に押し流される。私はいつまで、こうやってひとり歩き続けていくんだろうと、ふと思った。あの人がいなくなって、もう何年も経ったというのに。
冷えた心に蓋を閉じて歩いていた、その時。
閑散としたロータリーを走り抜けるように、ひとつ冷たい夜風が吹いた。
ピューイ────
それは通り抜けていくように、聴こえたのだ。
目を凝らしてみたけれど、何台かの車が通りすぎてゆくだけだった。風と車の音だったのかもしれない。でも、確かに見える気がした。
青く沈んだロータリーを悠々と泳ぐ、
月のようなクジラの姿が。
思わず夜空を仰げば、水面に揺れる光のようにぱらぱらと星が瞬いている。その切ない輝きが、視界の端に滲んでゆく。
あの人の言葉は、私をいつでも、真夜中の色に触れさせてくれる。
5/18/2023, 1:10:48 AM