貧しい恋人たちがいた。クリスマスの夜、彼らは食べ物でも服でもなく、聖なる夜にふさわしい、真っ赤なポインセチアを買う。
ふたりは凍えて飢え死にそうになりながら、自分たちに不釣り合いなほど立派なポインセチアにうっとりとして、温かな微笑みをかわしあうのだ。
そんな物語をどこかで読んだことがある。
愛があるというだけではいずれ死んでしまうだろうと、その時思った。
どれだけ恋人を想う清らかな心を持っていたとしても、ポインセチアだけで真冬の夜を越えられるわけがなく、生きていくことはできないのだ。
でも、彼らにとって、クリスマスの夜にポインセチアのない人生など、生きている意味がないに等しいものなんだろう。
それに、白い聖夜にひっそりと燃える深紅の花びらのあたたかさを知るのは、きっと彼らしかいない。
カムパネルラの死を知ったザネリは、あれからどんな夢をみたんだろう。
たとえばジョバンニのように、銀河を1周するほどの時間をかけたとしても、果たしてその現実を受け入れて、自分の人生に向き合うことはできるのだろうか。
あるいは、彼の心は、いつまでもあの川を揺蕩いながら、沈みきることもできずにいるように思う。
ザネリの真意は知るよしもないことだ。案外、けろっとして生きていったのかもしれない。
それでも、不条理な死を遂げたカムパネルラと、生き残ったいじめっ子ザネリ。潰えたひとつの人生と、変わりなくやってくる明日。その心とリンクしようとするたびに、後悔とは何か、考えてしまう。
楓にも花がある。とても遠慮深くて仄かな色をつけているから、目立たないけれど。
種はかわいいんだ。竹とんぼみたいにくるくるまわりながら、風のままに飛んでゆく。風媒花っていうんだよ。
風に流され、楓はまた奥ゆかしい花を咲かせて、目が覚めるような緑から鮮やかな紅葉、そしてまた、その種はくるくると飛んでゆく。
花の香りもしないから虫や鳥を惹きつけない。
だから誰も気づかないんだけれど、こういう生き方をしてみたいものだね。
ある人が言っていた。
「何もしない」をしたいなあ。自分のために誰かのためにと何かを生産することもなく、忙しない日常の余白を繋ぎあわせたみたいな、まっさらな時間を過ごしたい。
心が暇になったな、て思ったら本でも読もうか。
レ・ミゼラブル、ノートルダム・ド・パリ……辺りの長編小説をじっくりと読んだりして、ポール・グリモーの『王と鳥』も久しぶりに観たい。
何だか、すごくフランスな気分。
君の成長は、人より少しだけゆっくりのようだ。
すぐに泣いてしまうし、ちょっとしたことで癇癪を起こす。
教室に蝶々でもはいってきたのなら、君はもうそこにはいない。君はどこまでも、君だけの世界を生きている。
クラスのみんなが、段々と物事の「分別」をつけられるようになってきても、君だけはいつも苦しそうだ。その小さな胸の底で、君の魂は灰のようにいつまでも燻り続けているんだろう。僕たちが子ども時代に、とっくに置いてきてしまったそれを。
「はやくおとなになりたい。」
君はいつだか、泣いていた。溢れそうな瞳からいっぱいに流れる水滴は、本当は誰よりも繊細な心をもつ君そのものだ。
「どうして?」
「おとなになって、わたし、あなたとケッコンしたい。」
いつからか。君の涙はとても綺麗だけれど、できるだけ泣いているとこはみたくないなと思うようになった。
だって君の笑顔は、神様からの贈り物のようなんだ。僕と結婚したいのなら、君は、君を壊してまで大人にならなくてもいい、君は君のままでいいのにと、ひそかに思っている。