「何もしない」をしたいなあ。自分のために誰かのためにと何かを生産することもなく、忙しない日常の余白を繋ぎあわせたみたいな、まっさらな時間を過ごしたい。
心が暇になったな、て思ったら本でも読もうか。
レ・ミゼラブル、ノートルダム・ド・パリ……辺りの長編小説をじっくりと読んだりして、ポール・グリモーの『王と鳥』も久しぶりに観たい。
何だか、すごくフランスな気分。
君の成長は、人より少しだけゆっくりのようだ。
すぐに泣いてしまうし、ちょっとしたことで癇癪を起こす。
教室に蝶々でもはいってきたのなら、君はもうそこにはいない。君はどこまでも、君だけの世界を生きている。
クラスのみんなが、段々と物事の「分別」をつけられるようになってきても、君だけはいつも苦しそうだ。その小さな胸の底で、君の魂は灰のようにいつまでも燻り続けているんだろう。僕たちが子ども時代に、とっくに置いてきてしまったそれを。
「はやくおとなになりたい。」
君はいつだか、泣いていた。溢れそうな瞳からいっぱいに流れる水滴は、本当は誰よりも繊細な心をもつ君そのものだ。
「どうして?」
「おとなになって、わたし、あなたとケッコンしたい。」
いつからか。君の涙はとても綺麗だけれど、できるだけ泣いているとこはみたくないなと思うようになった。
だって君の笑顔は、神様からの贈り物のようなんだ。僕と結婚したいのなら、君は、君を壊してまで大人にならなくてもいい、君は君のままでいいのにと、ひそかに思っている。
初めて彼を見たとき、妖精の子どもみたいだって思った。私たち、やっと6才になったばっかりだったから。でも、よく覚えている。
幼かった彼の耳には、丸くてつやっとしたものがいつも入っていて、先生はそれを「ホチョーキ」といった。
「大きい声をだしてびっくりさせちゃダメだよ。」
有り余るエネルギーをこれでもかと放出する男子たちの中で、彼だけがゆっくりと呼吸をして生きているのだと思った。
小学4年生のとき、彼の世界から音は閉ざされた。それでも私は彼と、囁きあうような会話を重ねた。どちらも筆談、私は少しだけ手話も覚えた。
もう聞こえていないのはわかっていたけれど、ときどきこぼれる、彼の妖精みたいな声を思いがけず拾うその時間が、私の宝物だった。
4月になれば、私は公立の中学、彼はろう学校へ通うことになる。やさしくてかっこいい彼のことだから、きっと彼と同じ景色のみえる、天使みたいな女の子たちからモテるのに違いない。
もう背丈も違う。歩くスピードも違う。私たちの生きる世界は少しずつかけ離れてゆく。
数歩先の、今にも羽ばたいていってしまいそうな彼の背中へ、声のままに叫んでみる。
「私を置いてかないでよ」
君は、愛と美の神に愛されている。本当にプシュケーの生まれ変わりみたいだ。
春になると、あの溢れんばかりの緑から、君たちは喜びの象徴のように生まれてくるだろう。この世の祝福をいっぱいに受けて、君たちの羽ばたきは幸せの風を呼んでいるんだ。
だから、僕はときどき酷く惨めな気持ちになる。そんな美しい君たちを、僕は銀色の糸で絡めとることしかできないのだから。君たちの翅を引き裂いて、咀嚼するとき、何ともいえない悲しい気持ちで僕の胴体は幾度も潰れそうになる。
そんな時に、君と出逢ったんだ。
僕は最初、目を疑った。だって君は、夜空を飛んでいたんだもの。細やかなつくりをした真っ白な翅が星屑のようにきらめいて、闇夜にすぅっと透けていった。頼りなげにはためく小さな姿は、紛うことなく君だった。君の、その小さな命の瞬きをみているような気がしたよ。
それからというのも、眩い太陽の下にいても、艶やかな青い蝶々が飛んでいても、僕はあの夜の君を思い出してしまう。
春の夜風を浴びるたびに身体がざわついて、君の姿をみるたびに、僕の知らない本能がしくしくと疼くのがわかる。
可笑しいだろう、僕はまるで君に恋をしてしまったみたいなんだ。僕の鋭い手足は、君に触れることすらできないというのに。
──本当は薄々と気づいている。あの夜、僕がみたのは君ではなくて、きっと誰かの魂だったんだろう。夜、君たちは草の陰で眠っているんだから。
魂の形は君にそっくりだってことを、聴いたことがあったんだ。
それでも、僕にはもう君を食べることはできない。
君の亡骸をみつけたら、そっと葉っぱで隠すつもりだ。土に埋めたら蟻たちに食べられてしまうから。
君の命が終わるとき、僕の命も尽きるだろう。
そうして今度こそ、足を捨て、銀色の糸を捨てて、あの夜空で君と逢いたい。
美しい君へ。
~モンシロチョウ~
美しい天使は、地上にエーデルワイスを残して空へと飛び立っていった。天使に恋をしてしまった登山家の、叶わぬ想いに応えるために。
だから、エーデルワイスの花言葉は『大切な思い出』なのだという。
私は天使でもないし、美しくもない。でもそろそろ天にいかなければならないというところだけは、奇しくも一緒なのだ。
それだから、そうね。私も何か、あの人に残せるのだろうか。残してもいいのだろうかと思ってしまった。天使のそれが、すごくナイスアイデアに思えたのだ。
あの人は、多分私のことなんて忘れてしまう。だって私たち、出逢ってまだひと月も経っていなかったんだもの。でも、それでいいのだ。
あの人はこれからも、いろんなことを経験して、恋をして、私の存在があの人の心の片隅にもいられるスペースなんてないのだ。私がいなくても、あの人の世界は回り続けるのだから。私の知らない幸せの世界を、あの人は生きていく。
だから私のことなんて、思い出してくれなくていい。
でも、やっぱり、忘れないでほしい。
形に残るものだと重いかな。お菓子だと余りにもあっけない。
だから、花の種を植えた。
花なら、咲くまでの間だけ、私はあの人の中に生きていてもいいでしょう。枯れてしまえばそのまま捨てて、何も残らない。
種は、まだ身体が自由に動かせた頃にお花屋さんで買ってきた。可愛らしくて、どこかせつなげで、昔から好きな花だった。いつか自分で育ててみようと思っていたそれを、あの人に託すのも悪くない。いいえ、本望といってもいい。
「ここにね、花の種を植えたの。来年には咲くと思うから、待っててね。」
ほら、やっぱりあなたは不思議そうな顔をしている。ちょっと気難しそうで、何かじっと考えている。私、あなたのそういう顔が好きだった。
「私だと思って、待っててね。何の花が咲くかはお楽しみ!」
エーデルワイスではないんだけれど、きっと綺麗な花が咲くのよ。星の涙のような、深い海の色をした小さな花が。
願わくば。あなたにとって『大切な思い出』になってくれたのなら。
これで忘れられない、いつまでも。
~勿忘草~
『私を忘れないで』