百年、私の墓の傍で座って待っていてください。きっと逢いに来ますから。
「ここにね、花の種を植えたの。来年には咲くと思うから、待っててね。」
もう命の尽きようとしている君が笑顔たっぷりにそう言ったとき、僕は、夏目漱石の『夢十夜』にある1節を思い出した。
これを頼まれた男は、本当に百年の月日を待った。自分は騙されているのかもしれないと思いながら、唐紅の赤い日が昇り沈むのを数え、ただ待ち続けた。
これからもうすぐ死ぬという、知らない女だ。涙を流しながら言われたからとして、果たして百年も待てるものなのか。
「私だと思って、待っててね。何の花が咲くかはお楽しみ!」
思えば、あの病院で君と出逢ってからまだひと月も経っていなかったのだ。君はどうして、僕なんかに自分の分身を託してくれたんだろう。
君の笑顔は最期まで眩しくて、僕は何だか、ぼんやりとした心地だった。
君から受け取った白い植木鉢は、今、僕の部屋の窓辺にある。
起きて、仕事して、食べて、寝る。一年なんて、ほとんど瞬きの速度で過ぎていくものだと思っていた。
あれから、植木鉢には毎日水をやっている。ようやく柔らかな緑がでてきたが、まだまだ蕾すらつける気配もない。
いったいどんな花を咲かせるのか。君のことだ、間違えて草の種でも植えてしまったんじゃないか。そうやって、ときどき君の眩しさを思い出す。
君の蒔いた種は、まだ花を咲かせない。
一年は、時に百年のように長いのだと知る。
ときめきも、熱っぽい甘さも感じたことがない。
でも、いるはずのないあの人の匂いがふっと香ったとき、思いもよらない動揺と少しの安堵、その重なりの隙間に、締めつけられる思いを抱く自分がいる。
恋に気づいてしまった、そんな雨の日。
何かの間違いで、誰か1人だけが生き残ってしまわないことを祈る。
はじまりが不平等であっても、終わりは等しく訪れて欲しい。
それに、皆それぞれの祈りを抱いて消えていくというのなら、世界の終わりは、世界がはじめて1つになるひとときを与え得るのかもしれない。
たった1人、終わったあとの世界をみるのは辛いだろう。
君と出会ってから、私は君に愛されることだけを望んで生きてきた。
「君はいったね?いつか必ず迎えに来ると」
「ええ。」
「どうしてあの時、私を突き放してしまったんだ。何年も、何年も何年も、私はただ君だけに焦がれてきたというのに。私はもうすっかり年をとってしまった。」
「ごめんなさい。」
骸骨のように肉の削げた私の手を、彼女はしっとりと握る。ああ、私はこの時をずっと待ち望んでいたのに。
「あなたは、私を愛してしまってはいけなかったのよ。」
次の時には、彼女の姿は跡形もなくなっていた。妖しく、さみしげな笑みを残して。
霧で閉ざされた意識が戻ったときには、私はすでにベッドの上で、そこには、もう二度と見ることのないはずであった妻と友人たちの顔があった。
「ああよかった……気がついたのね。」
「まったく運のいいやつだ。あんな崖から飛び降りておきながら、木の枝に引っかかって助かるなんて。」
安堵めいたため息が、蜘蛛の巣のように私を包みこんでゆく。
私はまた、君に愛されなかった。
アネモネは風の花。
風が花を咲かせたかとおもえば、次の風が花を散らしていく。誰かがそんなことを言っていた。
もう5月だし、今日は病室もじんわりと暑い。
アネモネは、とっくに連れ去られていってしまったんだろうな。春色に染めあがった蝶々みたいで、きっと綺麗なんだろう。
#今日の心模様