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3/22/2025, 9:45:26 AM

▶137.「君と見た景色」
136.「手を繋いで」
:
1.「永遠に」近い時を生きる人形‪✕‬‪✕‬‪✕‬
---
日が沈めば、花街は目覚めの時を迎える。

クロアとの買い物の後。
ひとまず聞いてみるだけでもお願いしたいと託された人形は、翌日シブたちの住む街を出発した。
そして首都を挟んで北にある街の一角、花街にやってきたのだった。



カラン、コロン

ドアが開いた拍子に、上の壁から吊るされた板同士が擦れ音が鳴り、
一番乗りで来た客の入店を知らせた。

「いつもご贔屓にありがとうございます、‪✕‬‪✕‬‪✕‬様。今宵も子猫をご指名でしょうか?」
「ああ。だが遊びに来たわけではない。女将も呼んでくれ」
「かしこまりました。まずはお部屋にご案内いたします」



人形が案内されたのは、子猫専用の個室だ。
中央にはソファとテーブルがあり、
隅には抱えて弾く形の弦楽器が立て掛けられている。
窓からは店にいる女たちの自室と繋がる渡り廊下が見える。

ソファに座った客は、自分の指名した女が廊下を渡ってくるのを今か今かと待ちながら、その期待を肴に酒を呑むのだ。

ソファに腰をかけた人形の前に酒を置き、
案内役は部屋を辞したのだった。





「お待たせいたしました」

私と子猫が部屋に入った時、彼は静かにソファに掛けていた。
今回も酒に手をつけた様子はなかった。

これは初めて店に来た時から変わらない。


「今夜は話があって来た。女将も子猫も掛けてくれ」
「かしこまりました。失礼いたします」


「それで、私のお人形さん。話って?」
子猫が話を振る。
その呼び方は何年も容姿が変わらないことを揶揄しているのだろうが。
私が最初に聞いた時はヒヤリとしたものだ。
しかし彼は淡々と受け入れ不快な様子を見せたことはない。

「ああ、…」
彼の話が終わると、子猫は私の顔をサッと見た。
服屋の妊婦の世話、しかも相性が良ければそのまま長期雇用とは。
確かに子猫にとっては良い話だ。

「どうした?」
「実は他で身請け話が持ち上がっておりまして」

だからといって。
ああ、もう本当に。彼の前では腹芸の1つもしやしない。
仕方なく事情を話せば、あっさりと彼は受け入れたようだった。

「そうか。こちらの話は以上だ。勘定を頼む」
「いえ、いえ。本日は結構でございます」

「では、これで子猫に時間を作ってやってくれ。明日また来る」
チャリン、といくつか硬貨が置かれた。
彼は見送りは要らないから子猫についてやれと言って立ち上がる気配を見せた。
そう言われても、はいそうですかと受け入れることは出来ない。
私は慌てて玄関の方へ通じるドアを開け、
廊下に待機していた従業員に目配せをして彼を部屋から送り出した。

部屋の中へ向き直ると、
子猫は置かれた硬貨をぼんやり見つめていた。
仕事中の態度としては本来なら説教ものだが、
黙って隣に座り、話し始めるのを待つ。

「女将さん、私…どうしたらいいのかしら」

長い無言の後、ポツリと子猫が呟いた。

「どうしたらも何も、夢が叶う良い機会じゃない」
「でも…」
「調弦でもしながら考えるんだね。気持ちが落ち着いたら部屋においで」

これ以上は子猫自身が考えるべきことだ。
私は酒を回収し、子猫と硬貨を置いて個室を出た。

「今日の子猫は店じまいでいいよ」
「承知いたしました」

酒を戻しながら番頭に伝え、事務室に向かう。

歩きながら、あの日は番頭として同じ道をはしたなくも走ったなぁと。
初めて子猫が店に立った日のことを思い浮かべてしまった。


彼は、まだ少女だった子猫が初めて連れてきた客だった。

母親が病に倒れ、自分を買えと強い決心を見せた子猫。
だが後ろ盾がなくなった花街の子に、周りの子供は容赦がなかった。

お使い中に泣きべそをかいていたらしい子猫を店まで送ってくれたのが彼だ。

「私のお客さんよ」

その時に付いた子猫の名にふさわしく、
幼い顔をツンと上げ、言い切った日。

まだ楽器も行儀も見習いとはいえ店の女が、自分の客だと言っているのだから退けることは出来ない。

まだ花街も眠る真っ昼間。
慌てて整えた個室は、子猫の母親が使っていた部屋だった。



さすがに見習いを一人残していく訳にはいかない。
何かあった時のために私は後ろで控えていた。

技術は拙いながらも誇らしげに瞳を輝かせていた子猫。

あの時、彼と見た景色。
彼とではなく仕事としてではなく。
ただの遊びで、あの子の母親と見たかった。


それから、子猫が成長して他の客も迎えられるようになっても、
彼との関係は途切れずに続いた。

自室に招くようになった時は、まさかと思ったが、
しかし関係性は変わらずに過ごしているらしかった。


だから彼の容姿が何年経っても変わらないことに触れずにきた。
他の女たちはさりげなく配置転換をして、
客につける二つ名すらも、女将に内緒でこっそりと変えた。


子猫があまりにも懐いているから。
母親が亡くなっても気丈に過ごす彼女から、これ以上何も取り上げたくなかったから。

そして子猫には今、とある有力者から身請け話が持ち上がっている。
店の利益だけで言えば、どうすればいいかなんて考える余地もない。
それに身請け自体だって悪い話じゃない。自分を店に売った女を客が買い受けるのは、大抵自分の嫁にするためだ。若いうちに店を辞められるなら、それに越したことはない。

こんなことは他の女に示しがつかないのだが、
考えろと彼女には言ったが断ってほしいのが本音だ。
友人の忘れ形見を金銭には変えたくなかった。


そこに来たのが、彼だ。


他に身請け話が持ち上がっていると聞いても表情は静かなまま変わらなかった。

まるで本物の人形のように。


あの静かすぎる表情が脳裏に焼き付いて離れない。
私の隣に座っていた子猫は、あれを見てどう思っただろう。



彼女は、何を選ぶだろう。

3/21/2025, 9:42:35 AM

▶136.「手を繋いで」
135.「大好き」「どこ?」
:
1.「永遠に」近い時を生きる人形‪✕‬‪✕‬‪✕‬
---
夜中から降り始めた雨が、まだ続いている翌朝。

「おう、今日はずいぶん冷えるな。話はまとまったか?」
「まだだ。ナナホシの威嚇行動を止められはしたが」
「プンプン」

ナナホシの活動への悪影響を減らすために別行動を取りたい人形と、
マスターと長期間離れることを拒否しているナナホシ。

対等な立場であると契約を結び手を繋いだメカ同士であるからこそ、お互い譲ることができずにいた。

「折衷案とかねぇのか?」
「私もナナホシも設定されたルールの中で活動している。そこから外れるには特定の条件が揃えることが必要だ」

「そういうもんなんだな」
「ああ、一晩世話になった」
「おう、礼なら要らねぇと言いてぇところだがな、✕‬‪✕‬‪✕‬。クロアの買い物に付き合ってくれるか?エスコートと荷物持ちをして欲しいんだ」
「荷物持ちは良いが、エスコートとは?」
「雨で道が悪いからな。簡単にいやぁ手を繋いで歩くってこった」

人形たちは風呂屋で体を洗い流しナナホシも清潔な布で拭き磨きをしてから、
シブの家へと戻ってきた。
「おーい、クロア。帰ったぞ」
「ツヤツヤ」
「シブは器用だな。ではナナホシ、しばらく隠れててくれ」

「おかえりなさい、シブ。‪✕‬‪✕‬‪✕‬さんもいらっしゃい。ありがとう、お風呂屋さんに行ってくださったのね、まだ髪が濡れてるわ。こちらへどうぞ」

クロアに通されたのは台所で、かまどにはまだ火が残っていた。
それを見たシブがすぐに動いて薪を足し始める。

「‪✕‬‪✕‬‪✕‬さん、こちらで髪を拭いてくださいな。良かったら座ってらしてね」
布を渡し椅子をすすめたクロアは、かまどに小鍋を乗せて中をかき混ぜ始めた。

「簡単なものですけれども、召し上がって」
「ありがとう。いただくよ」

人形は、言葉の柔らかさを少し調整し、
運ばれてきたスープの入った椀を手に取る。

「あー、うめー」
「うふふ、良かったわ。ねえ雨は止んでた?」
「まだ降ってたが、じき止むだろうな。買い物だろ?そろそろだと思ってな。‪✕‬‪✕‬✕‬に頼んだぞ」

「もう、心配症なんだから。ゆっくり歩けば大丈夫よ」
「シブはあなたと離れることが不安なのだろ」
「おまっ、そうじゃねぇよ」

人形の差し込んだ言葉にシブが焦って否定しようとするが、
それはもう肯定と同じだ。
聞いたクロアは、ニコリと笑って態度を変えた。

「シブが安心するというなら、そうしてあげるわ。‪✕‬‪✕‬‪✕‬さん、お願いしてもいいかしら?」
「もちろんだ」
「ではお言葉に甘えてよろしくお願いしますわ。シブ、行ってくるわね」
「おう」


外に出ると、雨は止んでいた。
この町の道は水はけが良くできているが、歩いていれば所々ぬかるみもあるだろう。

人形なら手を繋がずとも反応できるが、できるだけ衝撃は少ない方がいい。
クロアと‪✕‬‪✕‬‪✕‬は軽く手を繋いで、喋りながら市場へと向かうのであった。

「いずれ店に人を雇いたいと思っていて。誰か良い人いるかしら」
「裁縫の腕なら、自分の服を仕立てたり毛皮も縫える人間を子どもの頃から知っている」
「まぁ!そんな方なら、店の方が放っておかないでしょうね」
クロアはコロコロと笑った。

「いつ頃から旅を?それとも、ご実家が近かったのかしら」
「その頃には旅をしていたよ。…私はこの国とは違う血が入っているらしくてな。若年期が長いんだ」

「そうだったの!若い時が長いだなんて、だから手も滑らかなのかしら?
こんなこと失礼かもしれないけど、羨ましく感じちゃうわ」
「滑らかさは気にしたことがないな。けど、怪我に強いのは確かだ」
「まぁー、シブが聞いたら驚くわねぇ」

「いらっしゃい。おやっ、今日は見慣れない人を連れてるねえ」
「ええ、旅の途中で寄ってくださったシブのお友達なの」

‪✕‬‪✕‬‪✕‬と手を繋いで尽きない話を続けながら、クロアは次々買い物を済ませていく。

「クロアは意見が対立した時、どう対処するんだ?」

「お客さまとだったら、まず相手の話をたくさん聞くわね。どうかしたの?」
「初めて旅仲間ができたのだが、旅の途中で彼の体には合わない地域があって。先に行って道を探してくると言ったのだが拒否されてしまってな」

「あらあら、その方とは今?」
「ひとまず話を保留にして、彼は自分の拠点で休んでいる」
「そう、そうなのね。早く仲直りできるといいわね…友達とか家族、仲がいい人とけんかになると辛いもの」

「家族とも?そうなった時はどうしているんだ?」
「シブや子供たちとは…うふふ、ケンカした時は手を繋いで話すようにしているわね」
最後を少し照れくさそうに言ったクロアは、繋いでいない方の手を火照りを冷ますように顔に当てていた。

「手を?」
「ええ、手を繋ぐと温かいでしょう?家族だと、もっと心地いいの。それに小さな傷を見つけたり、子供も大きくなったなぁって感じたり。そうすると気持ちが穏やかになってくるの」

人形から見たクロアは、誇らしげにも見える表情をしていた。
それを自慢というよりも家族への愛情故だろうと人形は分析する。

それに、買い物の途中で人形の手の温度をクロアのそれに合わせると、
明らかにクロアの緊張が解れた。
手を繋いで伝わるものは、生理的な温度だけではないのだ。

「そういえば旅の途中に、手を繋いで冬越えの無事を祈る村があった」
「冬の厳しい村なのね。もっと聞かせて?」
「ああ。あれは…」

話と話は手を繋いで、家に戻るまで延々と続いた。

3/20/2025, 9:08:03 AM

▶135.「大好き」「どこ?」
134.「叶わぬ夢」
133.「花の香りと共に」
:
1.「永遠に」近い時を生きる人形‪✕‬‪✕‬‪✕‬
---
ナナホシと人形が出会って2回目の春が来た。

人形たちが旅の土産を渡しにシブの家を訪ねると、妻のクロアが出てきた。
「こんにちは、クロア」
「こんにちは、‪✕‬‪✕‬‪✕‬さん。お元気そうで何よりだわ」

「ありがとう、クロアも健在そうで何よりだ。シブはいるか?」
「それなんだけどね…」

裏手にある服屋が自分の店で、シブはそこにいるということだった。

「来ていただいて本当に申し訳ないのだけれど、そっちへ回ってくださらないかしら」

確かにこういった場合は呼びに行くことが多いが、だからといって向かわせるのが失礼という程でもない。それにしては、クロアは恐縮した様子であった。

人形は、気にしなくていいと伝えつつオリャンの瓶詰めを渡すと、クロアは、このジャムが大好きで嬉しい助かると言って前回よりも喜んで受け取った。


「喜んでもらえて良かった。では、失礼する」

そこに卑屈さはなかった。本当にそう思っているのだ。


「何か、ありそうだが。どうも不穏な問題ではない様だな」
「ウゥン、ウン」
「どうしたんだ?ナナホシ」
「クロア何カ違ッタ。何デ?分カラナイ」
「ふむ」

言われた通りの場所に向かうと、
ドアに閉店中という下げ看板がついた服屋があった。
‪✕‬‪✕‬‪✕‬がノックをしてみれば、のっそりと出てきたのは、確かにシブであった。

「おう、今年も無事で何よりだ。入れよ」

店の奥、作業スペースまで通されたが、シブ以外の人間はいない。

「この状況は一体どういうことなんだ」
「あー、簡単に言やぁ、まあ子供ができたんだ」

「ア、匂イ。前ト変ワッテタ」
「妊娠か」

「おう。上のが独立してそこそこ経つし、さすがに無理だろうってクロアとは話してたんだがな」

もぞもぞと人形の服のポケットから出てきたナナホシは、
前年に来た時とは違う、見慣れない場所に興味がある様子だった。
ちょこちょこと触覚を動かし確かめつつ、すぐ側にあった作業台から探検を始めた。


「そうなんだな。ほとんどの人間にとっては喜ばしい慶事だと記憶している。それから妊娠初期は重要な期間だとも。どうしてそのクロアと離れて生活を?」

「それなんだがな…」

言い淀んで、本物の虫のような動きを見せるナナホシをしばし注視したシブは、
‪✕‬‪✕‬‪✕‬に目線を戻し、話し始めた。

内容は、クロアが妊娠したらシブの匂いを受け付けなくなってしまって一緒に生活できなくなったということだった。

「いっくら本人が慣れてるって言ってもよ、長く家を空けるわけにはいかねぇ。今年は仕事を休むことにしたんだ。こんな時くらい家事のひとつでもふたつでも代わってついててやりてぇじゃねえか」

実際、前んときゃそうしてたんだからよ。

「それがよぉ…」

そう言って、シブは大きく息をついた。
とにかくよ、とシブは話を続けた。

「俺は我慢すりゃいい話だ。クロアは友達も多いからな、朝昼と様子見に来てくれてっから安心だ。問題は夜だよ、夜」

「ふむ」
「まぁ、お前にどうこうして欲しいわけじゃねえが、そういうこった」

ナナホシはミシンの上を探検していたが、端に寄りすぎて足を滑らせた。

「助ケテー」

「おお、お前、自分で戻れないのかよ…」

ミシン台に落ちてコロンとひっくり返っているナナホシを、
近くにいたシブが慌てて助け起こす。


その光景を見ていた人形は、ふと考えた。

「クロアの話だが、ナナホシはどうだ?」

「僕ガ?」
「こいつを?」

「みなが納得すれば、の話だが。実はナナホシと別行動したいと考えていた」
「エ!‪✕‬‪✕‬‪✕‬、ドコ?ドコ行クノ?」

今度はナナホシが慌てたように人形の元へ、文字通り飛んで戻ってきた。

「イレフスト軍の目を掻い潜りつつサボウム国の滞在期間を極力短くする進路を見つけたいのだ」
「なんでまた」
「ナナホシにサボウム国の空気が合わないのだ。既に活動に支障をきたしている」

「そうか、そうなんだな…」
数瞬、シブは痛ましい表情を見せたが、すぐにそれは隠された。

「つっても、そのまま諦める訳ないよな?」
「ああ、そのつもりだ」
「なら俺は歓迎だ。クロアも仕事柄虫は平気だしな」
「嫌ダ!‪僕ハ‪✕‬‪✕‬‪✕‬ガ大好キ!ダカラ✕‬‪✕‬‪✕‬ガ行クナラ、ドコニダッテ行ク!」

ナナホシは、ブブブ、と細かく羽を震わせて威嚇までしている有様だ。

「ずいぶん激しい反応だが、これは大丈夫なのか?」
「以前に3日ほど離れたことはあるが、ここまでの反応はなかった。だが、ナナホシも設計されたメカだ。プログラムにない動きは出来ない。マスターと長期間離れることのないようにするためだろう」


激情を見せるナナホシとは対照的に、人形はナナホシを冷静に観察していた。

「大好き、か。私は記録されているデータを使って人間の表情から感情を読み取れるが、私自身に感情はない。ナナホシのそれもプログラム上にある言葉か。どこの分野に記録されているのだろうな」


「はぁん、なるほど人形。確かにな」
人間なら、思わず絆される場面だ。
だが‪✕‬‪✕‬‪✕‬には、ちらとも心を揺り動かされた様子がなかった。


「ナナホシと話をする必要があるようだ。シブ、すまないがまた来る」
「おいおい、どこに行くつもりだ?話が出来る虫も、虫と話せる人間もいねぇんだぞ。小さい店だが、貸せる部屋ぐれぇある。なんなら泊まってけ」

人形の服にしがみついたまま今もなお威嚇を止めないナナホシを見下ろした人形は、

「そうさせてもらう」
と、答えたのだった。

3/18/2025, 9:47:22 AM

▶134.「叶わぬ夢」
133.「花の香りと共に」
:
1.「永遠に」近い時を生きる人形‪✕‬‪✕‬‪✕‬
---
フランタ国の花街にて

「…という訳なの。しばらく来られないからと仰ってね、だから次に来た時に答えが欲しいそうよ。よく考えてちょうだいね、子猫ちゃん」
「はい、分かっています」
「やだ、そういう意味じゃなくて。自分の為によ?本当に分かってる?」
「ありがとうございます、女将さん。ちゃんと、よく考えますから」


はっと我に返った子猫が座っていたのは、自室のベッドだった。

「あら、私ったら…」

子猫は廊下に面したドアが閉まっているのを見て、
覚えはないが自分で閉めたのだろうなと、ぼんやり考えた。
そのまま虚空を見つめる子猫の頭の中を巡るのは、女将に言われた言葉。


(どうしたらいいのかしらね…)
ぼふん、とそのまま服のしわも気にせずに倒れ込んだ。



こんな良い話を蹴る奴が、どこにいるというのか。

女将さんもああ言ってはくれたが、今までの店への恩を返すには絶好の機会だ。
それに、仮に断ったとして、そのお得意さんの足が遠のいてしまったら?

選択肢があるようで、考えれば考えるほど一択に絞り込まれてしまう。


「身請けかぁ…」

こちらの籠からあちらの籠へ。

これでは猫ではなく飼われた鳥だ。


ちら、と机の置いてある方に視線を送る。
今は目線が低くて見えないが、机の上には縫いかけの服が置かれている。

仕上がれば、軽やかな春を表現した装いが出来るだろう。
子猫はこれを、客の前に出る仕事用ではなく、
プライベートな外出用として仕立てていた。

自分を買う資金が貯まるまで、あと少しだったから。


「外、出てみたかったな」


涙の止まらない理由を無視して、

(この涙は眠くて欠伸をしたから、そのせいだから)



子猫は目を閉じた。

3/17/2025, 9:49:03 AM

▶133.「花の香りと共に」
132.「心のざわめき」
:
1.「永遠に」近い時を生きる人形‪✕‬‪✕‬‪✕‬
---

ヤンは、目の前が真っ暗になるような心地であった。

80年以上も経って突然起動した装置。
その中に収められていたメカ。

そして、メカと一緒にいた青年‪✕‬‪✕‬‪✕‬。

ホルツ課長が予想していた、あくまでも予想と分かってはいたが、
‪✕‬‪✕‬‪✕‬と、装置から見つかった手紙に書いてあった____という人物は何らかの関係があるのだろう。ヤンもそう思っていた。そうでなければ、どうして山奥の施設にたどり着けると言うのか。

しかも、✕‬‪✕‬‪✕‬がナトミ村に来ていたことは事実だ。

それなのに、どうしてここで繋がりが切れてしまうのか。


(どうして…)

自分が立ち向かっているものの底知れなさに、ヤンは周りを気にする余裕もなく途方に暮れていた。


「ジーキ様、ヤン様には何か事情があるようですな」
「そうだな」
ジーキの返答に、村長は胸を張って言った。
「ひとまず新しいお茶にしましょう。それで落ち着かれませ」


そうして少しの時間の後。
ヤンにとっては永遠にも感じただろうが。
村長の手によって目の前へ置かれた茶からは、柑橘の香りが漂っていた。

「これは村の名物、オリャンの皮を使ったお茶です。どうぞ」

「…ありがとうございます…」
爽やかな香りに誘われ、自然と手が伸びる。
大きく息を吸い込めば、その香りが肺いっぱいに満たされる気がした。
湯気をのぼらせ揺れる水面を眺めながら、少しずつ口に運べば胃に温かいものが入って、ゆるゆると緊張のほぐれていくのが分かる。
ふと横に視線を流せば、書類を端に寄せて同じように茶を飲むジーキ課長がいた。しかしその表情からは動揺も何も伺えず、平然とした顔をしていた。


「村の話し合いでも、行き詰まって皆が暗い顔になることはよくあるのです。そのような時に、このお茶はよく効くんですよ」
「とても良い香りですね」

「でしょう?あとは、これですね。オリャンのジャムです」

クラッカーにポってりと乗せられた、ツヤツヤとした黄色。

「え、ええと…」
「はは、まぁ騙されたと思って」

酸っぱすぎて食べられないと噂のオリャンの実。
ヤンは間違ってもむせないようにと息を止めて一息に口の中へ運んだ。

「ん?甘い…」

酸味はある。だが、噂に聞くよりもずっと弱い。
「オリャンの酸味は、熱を加えると弱くなるのですよ。よろしければ、好きなだけ召し上がってください。まだまだありますから」

皿に山盛りのクラッカーと、
オリャンのジャムは最初に食べた果肉のみと皮入りのものと2種類。
それからお茶のお代わりが入ったポット。

村長はそれらをテーブルに置き、書類を回収した。
「部外者には話しづらいこともあるでしょう。しばらく私は席を外します。窓は開けますが、中庭に面しているので外までは届きません。家の者にも近寄らぬように言っておきますので、ご心配なく」

「お気遣いありがとうございます」

「いえいえ、それでは」

ドアが閉まるまで見送ったヤンは、
大きなため息をつきながらソファにもたれかかった。

「はぁー、私はまだまだ未熟者だ」
「そうだな」

それきり二人は無言になり、時折ガラス瓶にスプーンが当たって音が立つ以外は、ぽりぽりとクラッカーをかじる音だけが部屋に響く。

大きく開けられた窓から、中庭に植えられたオリャンの花の香りが届く。

しばらく花の香りと共に、ぼんやりと咀嚼音に耳を傾けていたヤンは、ふと気がついた。
「ジーキ課長」
「なんだ」
「ずいぶん食べますね?」
「それがどうした」

ハッとソファから体を起こすと、山盛りだったクラッカーもジャムも目減りしていた。

「ちょ、ちょっと!私の分まで食べないでくださいよ!」
「食べないのが悪い」
「いやいやいや!食べます!食べますから!」

皮入りのジャムはほろ苦くて、ヤンは頭のもやが晴れていくような気がした。

「クラッカーの塩味がクセになるな」






(腹が膨れると、それまで難題だと思っていたものが何とかなるような気がしてくるから不思議だ)

指に付いたジャムをペロリと舐めとったヤンは、空っぽになった皿と瓶を眺めて、そんなことを思った。

「いい顔になったな。これからどうするつもりだ」
「そうですね…」

‪✕‬‪✕‬‪✕‬に絡む問題を解決することは、
今いるナトミ村と軍との間で生じている軋轢にも影響を与えることができるかもしれない。

町に昇格させて税金を高く取りたい軍と、それを拒否してきたナトミ村は、
しばしば小競り合いを起こしていて、今は‪✕‬‪✕‬‪✕‬を争いの中心に置いて噂に噂を重ね合う泥沼試合の様相を呈している。

「私は、あの小さくも消失した技術満載のメカが喪われることだけは避けたい。その為には、‪✕‬‪✕‬‪✕‬の正当性を証明しなければなりません。____へ繋がる手がかりがない今は、他の局員について調べたいと思います」
「分かった」


応接室から廊下に出ると、端の方で待機していた村長が駆け寄ってきた。

「村長、ご協力ありがとうございます。それに、お茶もジャムもおいしかった」
「それはようございました」
「ジャムとクラッカーは村だけで消費しているのか?」
「そちらでしたら観光客向けに土産物屋で販売していますよ」
「今すぐ買ってくる」

情報を聞いたジーキはくるりと玄関の方へ向き直り、そのまま去っていった。

「村長、聞いてもよいでしょうか」
「旅人さんのことですね?」
「お見通しでしたか。はい、そうです。なぜ味方に?」
「軍への反抗心もありますがね。オリャンを好いてくれるからですよ。単なる洗濯の道具ではなく、ね」

「そうでしたか…またこの村に来る日があるでしょうか?私は彼に会わなければならないのです」

その言葉の真意を確かめるように、村長はヤンの顔をじっと見つめた。
ヤンも目をそらさずに見返した。

「分かりました、お教えします」
やがて、ふっと目を伏せた村長は言った。

「彼は、次の冬にまたこの村へ来ると言っておられました」

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