▶137.「君と見た景色」
136.「手を繋いで」
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1.「永遠に」近い時を生きる人形✕✕✕
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日が沈めば、花街は目覚めの時を迎える。
クロアとの買い物の後。
ひとまず聞いてみるだけでもお願いしたいと託された人形は、翌日シブたちの住む街を出発した。
そして首都を挟んで北にある街の一角、花街にやってきたのだった。
カラン、コロン
ドアが開いた拍子に、上の壁から吊るされた板同士が擦れ音が鳴り、
一番乗りで来た客の入店を知らせた。
「いつもご贔屓にありがとうございます、✕✕✕様。今宵も子猫をご指名でしょうか?」
「ああ。だが遊びに来たわけではない。女将も呼んでくれ」
「かしこまりました。まずはお部屋にご案内いたします」
人形が案内されたのは、子猫専用の個室だ。
中央にはソファとテーブルがあり、
隅には抱えて弾く形の弦楽器が立て掛けられている。
窓からは店にいる女たちの自室と繋がる渡り廊下が見える。
ソファに座った客は、自分の指名した女が廊下を渡ってくるのを今か今かと待ちながら、その期待を肴に酒を呑むのだ。
ソファに腰をかけた人形の前に酒を置き、
案内役は部屋を辞したのだった。
◇
「お待たせいたしました」
私と子猫が部屋に入った時、彼は静かにソファに掛けていた。
今回も酒に手をつけた様子はなかった。
これは初めて店に来た時から変わらない。
「今夜は話があって来た。女将も子猫も掛けてくれ」
「かしこまりました。失礼いたします」
「それで、私のお人形さん。話って?」
子猫が話を振る。
その呼び方は何年も容姿が変わらないことを揶揄しているのだろうが。
私が最初に聞いた時はヒヤリとしたものだ。
しかし彼は淡々と受け入れ不快な様子を見せたことはない。
「ああ、…」
彼の話が終わると、子猫は私の顔をサッと見た。
服屋の妊婦の世話、しかも相性が良ければそのまま長期雇用とは。
確かに子猫にとっては良い話だ。
「どうした?」
「実は他で身請け話が持ち上がっておりまして」
だからといって。
ああ、もう本当に。彼の前では腹芸の1つもしやしない。
仕方なく事情を話せば、あっさりと彼は受け入れたようだった。
「そうか。こちらの話は以上だ。勘定を頼む」
「いえ、いえ。本日は結構でございます」
「では、これで子猫に時間を作ってやってくれ。明日また来る」
チャリン、といくつか硬貨が置かれた。
彼は見送りは要らないから子猫についてやれと言って立ち上がる気配を見せた。
そう言われても、はいそうですかと受け入れることは出来ない。
私は慌てて玄関の方へ通じるドアを開け、
廊下に待機していた従業員に目配せをして彼を部屋から送り出した。
部屋の中へ向き直ると、
子猫は置かれた硬貨をぼんやり見つめていた。
仕事中の態度としては本来なら説教ものだが、
黙って隣に座り、話し始めるのを待つ。
「女将さん、私…どうしたらいいのかしら」
長い無言の後、ポツリと子猫が呟いた。
「どうしたらも何も、夢が叶う良い機会じゃない」
「でも…」
「調弦でもしながら考えるんだね。気持ちが落ち着いたら部屋においで」
これ以上は子猫自身が考えるべきことだ。
私は酒を回収し、子猫と硬貨を置いて個室を出た。
「今日の子猫は店じまいでいいよ」
「承知いたしました」
酒を戻しながら番頭に伝え、事務室に向かう。
歩きながら、あの日は番頭として同じ道をはしたなくも走ったなぁと。
初めて子猫が店に立った日のことを思い浮かべてしまった。
彼は、まだ少女だった子猫が初めて連れてきた客だった。
母親が病に倒れ、自分を買えと強い決心を見せた子猫。
だが後ろ盾がなくなった花街の子に、周りの子供は容赦がなかった。
お使い中に泣きべそをかいていたらしい子猫を店まで送ってくれたのが彼だ。
「私のお客さんよ」
その時に付いた子猫の名にふさわしく、
幼い顔をツンと上げ、言い切った日。
まだ楽器も行儀も見習いとはいえ店の女が、自分の客だと言っているのだから退けることは出来ない。
まだ花街も眠る真っ昼間。
慌てて整えた個室は、子猫の母親が使っていた部屋だった。
さすがに見習いを一人残していく訳にはいかない。
何かあった時のために私は後ろで控えていた。
技術は拙いながらも誇らしげに瞳を輝かせていた子猫。
あの時、彼と見た景色。
彼とではなく仕事としてではなく。
ただの遊びで、あの子の母親と見たかった。
それから、子猫が成長して他の客も迎えられるようになっても、
彼との関係は途切れずに続いた。
自室に招くようになった時は、まさかと思ったが、
しかし関係性は変わらずに過ごしているらしかった。
だから彼の容姿が何年経っても変わらないことに触れずにきた。
他の女たちはさりげなく配置転換をして、
客につける二つ名すらも、女将に内緒でこっそりと変えた。
子猫があまりにも懐いているから。
母親が亡くなっても気丈に過ごす彼女から、これ以上何も取り上げたくなかったから。
そして子猫には今、とある有力者から身請け話が持ち上がっている。
店の利益だけで言えば、どうすればいいかなんて考える余地もない。
それに身請け自体だって悪い話じゃない。自分を店に売った女を客が買い受けるのは、大抵自分の嫁にするためだ。若いうちに店を辞められるなら、それに越したことはない。
こんなことは他の女に示しがつかないのだが、
考えろと彼女には言ったが断ってほしいのが本音だ。
友人の忘れ形見を金銭には変えたくなかった。
そこに来たのが、彼だ。
他に身請け話が持ち上がっていると聞いても表情は静かなまま変わらなかった。
まるで本物の人形のように。
あの静かすぎる表情が脳裏に焼き付いて離れない。
私の隣に座っていた子猫は、あれを見てどう思っただろう。
彼女は、何を選ぶだろう。
3/22/2025, 9:45:26 AM