いつまでも追いつけない人でいてほしかった
通学途中、決まった曜日にだけ見かける先輩がいた。部活の関係なのだろう、うちの学校は運動部と文化部の一部を除けば、基本週に1回活動するだけのただの集まりがあるやつが大半だ。だから普段顔も合わせないような生徒同士が帰宅時間が被る唯一の曜日でもある。
先輩を見かけたのはそれが初めてだったし、途中まで方向が同じなのもあって見かけたらなんとなく目で追うようになった。
特別美人でもなければ可愛いわけでもない。スッと伸びた背中とスマホを覗くたびに微笑む様子がなんとなく印象に残ったのだ。
そんな奥手でもない俺にとってはまあ、少し、面倒臭いなとは思った。でも気になるのは先輩だけだし、ということで話しかけたら早かった。嫌々ではないが雰囲気に流された感じの先輩を彼女にできた。
一見恥ずかしがり屋にみえて、ただ困惑しているような我慢しているような、自然と一歩後ろに下がってしまう変な人だ。隣に並んでいたのに気づけば俺の後ろを歩いているし、アクションを起こすのも全部俺だけで先輩はされるがまま。物理的な距離は縮まっても精神的な距離はずっと残った。
穏やかに、喧嘩なんてしたこともなく穏やかに、先輩の卒業式を迎えた。お互いなんとなくここまでだと思っていた。遠距離するほどの熱はなく、でもいい思い出として残り続けるだろうなってくらいの距離。
早咲きの桜が色づいているのを綺麗だねといって眺めながら歩いた。珍しく隣を歩いてくれて、なんなら少し距離が近いくらいだ。ちょっとからかおうと口を開いたとき、
「私ね、病気なんだって――」
言葉は出なかった。はくはくと息だけが漏れて、困った顔をした彼女が笑いながらハンカチで頬を撫でてくる。
こんな、こんなの、笑っていられるかよ。
いつも困ったように笑うだけで拒否しなかったのも、言葉では遠慮するくせに表情や態度では隠せていなかったのも、一度も好きだと返してくれなかったのも、そのせいか。
どうしようもないほど惚れていた。惚れていたさ。
ただただ、無駄な気遣いと不親切な優しさが腹立たしい。
進学もせず、彼女は入院した。
痛いと泣き言をこぼすのは通話のときだけ。
面会のときはずっと笑っていた。
最期に、ようやく、ほしかった言葉をくれた。
ほんと、ずるい人だよ。
俺だって、俺のほうがずっと好きなのに。
そういうところが、嫌いだ。
【題:好き、嫌い、】
夢をみていた
トン、と手首に何かが触れて飛び起きた。
心臓が飛び出るくらい跳ねて、全身から汗が噴き出す。夢の内容と目に映る情報を処理しきれず目眩がする。激しく動く脳と心臓と、遅れて追いついた感覚に吐き気を覚え俯いた。
「大丈夫か」
聞き慣れた声に、ようやく夢と現実の区別がつき始めてあんなにもリアルなありもしない記憶が遠ざかっていった。懐かしくて、楽しくて、幸せな、私の――
ヒタリ、頬に冷たいものが触れる。
額に、頬に、首筋に、汗が伝ったあとを撫でていく。気持ちいい温度に顔を上げると眉を下げた青年が困ったように笑った。
「泣くな」
ここにいる、だから泣くな。
相変わらず無愛想で下手くそな慰め方だ。冷やしたタオルも絞りがあまいから顔も襟元も水浸しである。
もう熱もないのに、いや、これは子供扱いされているだけか。起こされないと起きないほど寝汚くはないのに。
夢をみた、昔の、家族の夢
今度こそ青年は困りきった顔をして黙ってしまった。
もうどうすることもできない過去の話。私は話したこともないのにね、そんな顔するってことは知ってたんだ。
「…泣くな」
その優しさも、献身も、何もかも無駄なんだよ。
だってもう、過去のことなんだから。
【題:届かないのに】
君だから、ずっと側にいたかったんだよ
もう聴こえなくなってしまったかな。
感受性豊かな君はずっとひとりぼっちだと泣いていたね。今でもきっと泣いているのだろう。
人一倍寂しがりなくせに、誰よりも人を嫌って拒み続けた。優しさには警戒するのに悪意には真正面から立ち向かう変な度胸もあったね。あまりいいことではないけど、そのおかげで僕は救われたよ。ありがとう。
何に対しても興味関心が薄れてしまった君に喜びを伝えたい。その一心で話しかけ続けた。笑ってまっすぐ僕を見つめる君に気づいてほしかった。その笑顔と純粋すぎる優しさは君の最大の魅力だよ。
どうか気づいて、泣かないで笑っていてよ
――――――
ずっと横たわったまま、後ろ足だけで器用に私を追いかけてきた、あなたの側にいきたい
小さな声で、何を話しているのかは分からなかったけど、ずっと話しかけてくれた。会話になっていたのかは分からないけど、あんなに長く誰かと話せたのは初めてだった。きっとこれからも更新されることはない。
痛いことをされて、不自由を強要されたのに、どうしてまだ人を信じようとするの。その健気さに期待してしまった私のエゴであなたを助けた。期待通り、それ以上にあなたは私にとってかけがえのない存在になってくれた。
壊れていく私を否定せず、ずっと私をあなたの中で生きさせてくれた。一喜一憂を、喜怒哀楽の全てを、あなただけが知っている。私もまた、あなたを覚えている。
あなたという優しさの全てを、忘れない
――――――
目を覚まさない君の声を、
もう話せないあなたの心を、
もっと、ずっと、聴いていたかった
【題:君だけのメロディー】
――私の愛は、あなたを知りたいということ
かつて、亡き母が遺した言葉を僕はずっと覚えている。
その意味を聞く間もなく息を引き取り、永遠に返ってこない答えを求め続けるのだ。幼かった僕には分からなかった言葉の意味を、正してほしい。
何冊ものアルバムを積み上げて、それでも足りないと嘆く父の背を撫ぜる。すっかり小さくなってしまったそれに気づかないふりをして話の続きを促した。
訥々と語られる思い出話を、ページをめくりながら振り返っていく。1つが2つへ、2つが3つへ、3つが2つへ。そして近く2つが1つへと変わるときがくる。
そのとき僕は、どうしたらいいのだろう。
遠くに揺れる煙に懐かしさを覚える。
もう随分と時間が経って、1つになったはずがいつの間にか二桁にまで届いてしまった。いつかの父と同じ背を僕とよく似た子が撫ぜる。
ようやく母の言葉の意味がわかった。
ただ失うよりもずっと寂しいものだ。それが愛であるとするならなおさら、
「しゃんとしなさいな」
もう聞こえないはずの声が、記憶の海を渡って僕に届けられる。顔も、名前も、思い出せないのに知っている。
確かにあった、隣にあった。手を取り、抱き合い、共に歩いた君を、僕は忘れていたらしい。
――もう一度、君を知りたい
だから、会いにいくよ
【題:I love】
その風習通り、水底に潜るのだ。
水中花というものをご存知だろうか。和紙などで作られた造花を水につけると花開くというインテリアだ。全く別物だが、ハーバリウムと少し似ているかもしれない。
私の地元は『本物の水中花』が名産である。
インテリアとしてではない、本物の花を水中で育てて瓶に詰めているのだ。花の盛りは花束より長く、鉢植えより短いのが特徴だ。リピーターも多くひっそりと続く人気商品である。
どんな花でも本物を水中で咲かせているが、中には水に弱く育たないはずの種類も含まれている。この特殊な技法を教えてほしいと尋ねてくる人はたくさんいたが、実際に育てているところを見せるとみんな諦めて帰っていった。
真似できないことはないが、部外者には不可能な風習を何百年も続けてきたのだ。諦める他はない。
難しい手順はない。人によっては恐怖を覚えるだろう、くらいの工程が含まれているだけだ。
満七歳の子どもに水底まで潜らせ、花の種を撒いてもらう。あとは1週間毎に花の様子を伺いながら、蕾がつくまで声をかけるだけ。声掛けは何でもいい、いいことでも悪いことでも、潜った子どもさえいるなら誰が何人いようと構わない。
私も昔これをやったことがある。同い年の幼馴染と一緒に潜って芽が出てきたときは一緒に喜んだのを覚えている。
だけど、ある大雨の日に山崩れがおきて幼馴染は亡くなった。悲しくて一時期家に引きこもるようになったが、風習は守らなくてはいけないと両親や隣近所の人に引っ張られて水辺に連れてこられた。
わんわんと大泣きしながら幼馴染への文句や大人たちへの恨みを叫んだ。小さな芽が2つ並んでいたのに私が植えたほうだけが成長して、片方は小さな芽のまま水に揺れていた。
私は雨が大嫌いになった。1週間降り続く雨の中風習を守るためだけに出掛けるのが恐ろしくて強く拒んだが、結局両親に抱えられて水辺に置き去りにされた。小さな東屋があってそこからこんな風習と雨への恨み言を吐いた。
ふと声が聴こえた気がして、顔を上げる。辺りには誰もいないが、もう亡くしたはずのよく知る声が聴こえた気がしたのだ。でもどんなに探しても声の主も発生源も見つからない。
水底を覗いた。透明度の高い水の中、大きく育った私の花の横で小さく双葉を開いた芽を見つけた。よくみると双葉の間から小さな小さな葉が出てこようとしている。
声を掛けなければ成長しないのに成長した。ということは、幼馴染はまだ、ここに。
「泣き虫め、ばいばい」
その声は幼馴染のものだと、わかった。
悲しくて寂しくてまたわんわんと泣きながら、ばいばいとありがとうを繰り返した。雨音しか返ってこないことが寂しくて一層酷く泣いていたら、両親が慌てて戻ってきてもう役目は終えたよく頑張ったと一緒に泣いてくれた。
私の花は珍しい青色をしていたと聞いた。
もっと珍しいことに一部の花だけ白色だったことも。
白は幼馴染のお気に入りの色だった。
最期の最後まで私を泣かせる酷いやつだ。
「もう、雨は怖くないよ」
あなたを思い出せるから、怖くない。
【題:雨音に包まれて】