雨が降るとみんな消えてしまう。なのに誰も傘を持っていない。軒下やテントに駆け込んで苦々しい顔で空を覗くのだ。
水たまりになることなく、地面に吸い込まれていく水滴を見届ける。踏むと硬いのに水を含んだ柔らかさを感じる不思議な質感だ。青く茂る芝も、新緑の木々も、自然に似せた人工物だから雨の匂いだけが本物としての存在感でこの場に満ちる。厄介だといわれるものだけが生きている。
雨に当たって消えてしまった人の痕跡が残っている。
ふやけた紙のような媒介を残して、今頃コクーン内の本体が目を覚ましているはずだ。明日にはまたこの場所に集まり笑いのネタにでもするのだろう。よくある話だ。
退屈で、退屈で、一歩外に踏み出してみる。
じわじわと染み込む雨が身体を溶かして、五感も何もないのをいいことに、自分の全てを消してしまった。
勢いよく開かれたカーテンの音に反射で身体を起こす。
案の定、疲れた顔をした職員に怒られてしまった。もっと身体を大事にしなさい、と締めくくって出ていった。
コクーンはもうほぼ完成しているのだからうるさく言われる筋合いはない。よく知らない『人』のために提供してやってるのだから少しくらい自由にしてもいいはずだ。
頭側のボタンを押して、今寝ていた箱と新しい箱を取り替える。今度は夏仕様のシンプルなレース柄だった。
そこにまた横たわって眠気がくるのを待つ。ゆるく波打つ天井に映された本物の外の海を観ながら呼吸をする。
いつまでも、ずっと、生きている間は、ずっとこう。
鍵のない部屋で飼い殺されるのを受け入れるだけ。
【題:カーテン】
――この想いが報われる日は、きっと、
童話の中で美談として語られる人魚姫って、そんなに健気で優しい性格をしていただろうか。
健気というより好きなものにひたむきな印象がある。人間の世界に憧れてたくさんアイテムを集めて喜んでいる。推し活よりも研究者のような熱意を感じるのだ。
海の仲間に対してみせる優しさと人間に対する優しさは違う。分かり合える仲間に対する信頼があるから同じ目線で助け合える優しさがあるが、生き方も何もかもが未知の人間には恐る恐る指先で触れて過保護なまでの優しさで命まで投げ出している。
好きと愛してるの違いだよ、と言われたが僕にはそれが分からない。
水難事故だと説明された。
水難というのは間違ってはいないだろう。でもアレは事故ではなくて作為的なものだった。
今でも誰一人として亡骸一つ見つかっていない。船の残骸だけが岸壁に打ち上げられて、乗客も船員もその人らの所持品も存在を示す全ての物がなくなっていた。
あれから数年経って、花束を持って岸壁の上にきた。船に乗っていた人たちの関係者ではないが、あの日みた光景が忘れられなくて毎年ここにくる。
穏やかな水面が荒れ狂う大海の波のように変貌する、その瞬間をみた。怒りと悲しみに満ちた悲鳴のような歌声が船を岸壁へと誘った。大破した船に這い上がり亡骸を一つ一つ検分して海に投げ捨てていた。鞄を漁り、航海の道具を漁り、アクセサリーを身体中につけて海の中に消えた。波が器用に船と船以外のものをわけて、気がつけばそこには船しか残っていなかった。
たぶんアレは人魚だ。美談として語られるものではなく、命を奪う怪物としての本来の姿をした人魚。
たぶん僕も死ぬはずだった、あの目は僕を逃さないと言わんばかりに僕を見ていた。魅入られた。招かれた。いつまでも忘れられないようにした。その印はなくならない。
青く、深い、深海の色
光のない、闇が拡がる、海底の色
存在しない面影を探す愚かさ
――僕は、僕だけは、付き合ってあげるよ
【題:青く深く】
これが過ちの代償…?
魔法の髪をもって生まれたお姫様を誘拐した。
この世界には万能薬が存在した。正当な手順を踏んで魔法の花から万能の効果を得て作る、特別な薬だ。
それを、王族が根こそぎ奪いこの世界から永遠に消し去った。魔法の花はアレが最後の一輪で、手順を守らなかったことでもう二度とどこにも咲かない。
だから魔法の髪をもった姫は何がなんでも守らなければいけなかった。
姫は王族らしからぬ品位のない女になった。教養も礼儀もマナーも、幼い頃から教えてきたのに、だ。
仕事から戻ってきて目にしたのは何人もの男とベッドで寝る姿だった。こんな爛れた環境では守れない。森の深くにある隠された塔に姫を閉じ込めた。
それなのに姫は勝手に抜け出して、今度は指名手配犯に心酔しだした。ようやく連れ戻せたと思ったら、大事な髪を切り落としてしまった。なんてこと、なんてことっ。
一度は捕らえられたが、姫は醜悪な顔で笑いながらもっと楽しませろと城の牢から追い出された。国中の民や衛兵に追いかけ回され、暴言を浴びせられ、暴力を振るわれ、やっとの思いで地下の塔、万能薬を作るアトリエに逃げ込んだ。
道中ずっと守ってくれた婚約者と今後のことを話し合っていたとき、衛兵たちが雪崩込んできた。奥へ身を隠そうと走り出したのに、婚約者は衛兵に向かってへらへらと頭を下げて自分だけでも助けてほしいと懇願しはじめた。
もうこの人もだめだ、そう思って一人で奥へ逃げた。何かを切り裂く鈍い音が背後で聞こえ、涙が溢れた。
分厚いシェルターの扉を開けて急いで中に入る。どんなに頑丈でもこの人数差では時間の問題だ。
これまでの人生を振り返る。
薬屋として長い時を生きてきた。いつしか魔女と呼ばれるようになり、尊敬から恐怖の対象へと変わっていった。
それでも患者はいた、だから助け続けた。生きる手段も方法も知っていたから助けた。
壁一面に並ぶカルテを見上げる。ずっと昔のものからつい最近のものまで、ありがとうと言いながら元気に去っていく人たちの顔は今でも覚えている。
扉が壊された。
冷たい刃が身体を貫く。
全て患者のためだった。
身勝手な王族への怒りだった。
みんな、みんな、何も分かってない。
「命を、なんだと思ってるの」
姫のために、一体何人の人が死ぬのでしょうね
【題:最後の声】
…我慢すればお金がもらえる
笑うことは義務であり、自分を守るための盾であり、立場を保つ武器でもある。
相手が喜ぶ言葉で、態度で、物で、自分を殺すことで理想に近づける。我慢を塗り重ねて、不快を身に纏って、痛みを履きこなす。笑顔を崩さずしゃんとすることだけが私の価値になる。
そんなことは長くは続かなかった。
痛いものは痛いし、嫌なことは嫌だ。我慢ばかりだと精神だけでなく身体までおかしくなる。
浴びるように酒を飲んで思考を歪ませても現実は待ってくれない。どこに行ってもお金お金お金、お金がものを言う。足りなかったら自分をすり減らして稼ぐ。
ねえ、お金が存在しなければもっと平和になるかな。
痛かった。
採血できないとか、点滴が落ちないからとか、何度も何度も腕に針を刺された。
苦しかった。
髪は抜けるし、爪はすぐ割れるし、力が入らないからペットボトルも開けられない。味のしないゴムみたいな食事を流し込んでは吐き出す作業は苦しい。
もう嫌だ。
無神経な医者の言葉とわざと話題を逸らす看護師の白々しい嘘が気持ち悪い。歳が近いからなおさら、友達でもないのに親しげに、でも仕事だから嫌々と、全部バレバレだよ。鬱陶しい。
退院した。通帳にはみたことない額が記載されていた。今までの全てが無駄じゃなかったと歓喜した。
通帳をみられた。すごく嬉しそうに笑ってよく頑張ったと褒められた。お前らは何もしてないくせに、その言葉は飲み込んで笑った。記載されないだけで減り続けるお金の音が聞こえた気がした。
「ねえ、お金なんていらないから、さ…」
私をみて。
私を愛して。
すぐになくなってしまう紙切れより、私を。
私を、みて。
【題:小さな愛】
『青は全部、紛い物よ』
真っ白な肌によく映えた赤い唇は、毒を吐く。
そんなことを言ったら私たちがやっていることは何の意味もなくなってしまう。最悪、死んでしまう。
一世を風靡した青い血の一族。
脈々と受け継がれる偏った思想と慣習によって酷く歪められた呪われた一族だ。
私にはその一族の血が流れている、らしい。
直系のご子息に気に入られた母がこっそりと産み落とした不義の子というやつだ。そんなのはよくあることで、一族が根絶やしにされても家門を残すための保険として見て見ぬふりされている存在である。
まあ、母が私を産んだのは単に愛人として生活費を受け取るための口実にするためだ。美人な母に似て整った顔立ちと発育のいい身体は父をさらに喜ばせた。
なんせ、一族は呪いの影響で男女問わずみな身体のどこかに欠陥をもって生まれるので誰も彼も美しさとはかけ離れた容姿をしているのだ。誇れるのは己に流れる血だけ、という残念な一族だった。
そこに私が生まれた。どこにも欠陥がなく、その上器量良し発育良しとくればもう、とても便利な駒となり得る。
だから両親は私を大切にする。
――紛い物の青を一等大事にするの
バレたらきっと、例の広場に並べられたもののように腐った醜い姿を晒されるのだろう。
よく晴れた空の青が、腐った褐色に映って濁る。
どこにも青い血などありはしない。あるのはその辺にあるのと同じ色だ。綺麗なものも高貴なものもありはしない。
空の青も、同じだったりしてね。
『血の色で証明できるものなんてないのに、バカな人』
【題:空はこんなにも】