もうまもなく時効になる。
昔から不思議な能力を持つと言われる王国があった。
軍事力も経済も何もかもパッとしない小国は、真偽不明の言い伝えのおかげで今まで在り続けてきた。まあ、我が国がそんな迷信を振り払って滅ぼしてしまったけれどね。
元王国の民は反抗することなく降伏した。だから王国という名が変わっただけでさして環境に変化もない。元々目立つものがなかったこともあり、見た目だけは本当に何も変わらない。
国王だけは首をはねたが他の血は流れず、あまりにも呆気ない終わりに無理やり姫君を娶ったがこれもまた何の反応もない。諦めとは違う、従順なフリをした罪人のような、姫君らしく立場を弁えたような、綺麗な人形のような姫君だ。
あれから何十年も経って、私は老いた。跡継ぎは終ぞ生まれることはなく、仕方なしに弟に王位を譲ることになった。姫君以外にも妻はいたが誰一人として無事に出産を終えられなかったのだ。
キシリ、
昔と変わらず美しいままの姫君が私の枕元に腰掛けた。普段ならそんな無礼なことはしないというのに、ようやくその為人の片鱗を垣間見ることができた気がした。
黙ったまま視線を動かし目を合わせる。皺もシミもない陶器のような肌と淡く輝くガラス玉のような瞳、髪の一筋から爪先まで全てが、娶ったとき何一つ変わらない。
「感謝申し上げます、陛下」
冷たい指先が頬を撫でて、姫君は薄く口元だけ微笑んだ。赤ん坊にでもなった気分だ、こんなにも慈愛に満ちた表情も仕草も初めてだったから。
「我々もかつてあの小国を手中に収めました」
何を言っているのだろうか。昔話にしては違和感しかない。
「初めは後継者が生まれず、争いから国は荒み、気づけばあの小国だけしか残っていなかったのです。
そして不思議なことに、あの小国だけが残ったときから王族は老いもせず死ぬこともなくなりました。国民はあの小国の血を引く者以外は死に絶え、新しく増えることもなく、そう、まるで時間が止まってしまったかのようでした」
滑らかな指先がカサカサと乾いたような音をたてる。
いつの間にか閉じていた目を開けると、そこには骨と皮だけのミイラが静かに座していた。動いているのも喋っているのも信じられない様相だ。
「我々に終わりをもたらしてくださったこと、感謝申し上げます。禁忌を犯してしまった罪を濯ぐことができました。これからは、陛下の妻としてその務めを果たさせてくださいませ」
表情などとても読み取れない状態なのに、その声だけは切実で、きっと今にも泣き出してしまいそうなのだろう、とだけ思った。人形のような姫君がようやく一人の人間として、いや、私の妻として隣に並んでくれた。
――ああ、もちろんだとも、
小国の呪いが我が国を蝕んだとしても、
姫君が真実を隠して欺いていたとしても、
君を救いたかったんだ
【題:君が隠した鍵】
これはもう、敵わないな、と確信した。
天性の才と言われれば、まあ、その通りなのだろう。
そんな不確かなものよりずっと本人の努力と挫折の積み重ねが形づくったものだと分かっているのに、理解したくないのだ。
指先まで丁寧な表現力としなやかな身体の運び、弛緩した動きに見えて神経全てを張った計算された動きの緩急。
大袈裟で誰かを真似た動きよりもずっと、その人自身にあった動きと魅せ方を熟知しているところ。
何もかもが完璧で、あたしはもう、完敗だ。
楽しくもない誰かの買い物の品を読み込む作業を繰り返す。この前観た動画はそのグループで一番推しているメンバーと同性のメンバーの2人で踊るものだった。1人はダンス自体は上手いが小柄なその人にはオーバーすぎる身体の使い方で違和感があったが、一番推しているメンバーはダウナーなように見えて指先の角度までこだわった丁寧な身の熟しをするすばらしいものだ。
メンバー全員が仮面をつけているのだが、踊りの癖というものは顕著に出ていて皆個性的である。参考にするダンサーを真似ているのはあたし1人だけで、他はみんな己に合う動きを心得ている。
バカだからいけないのだろうか。
教養が足りていないから表現力が劣って、曲の理解度も浅く、動きの計算も自分に合うものの取捨選択もできないのだろうか。
恨めしい、あたしの足りないもの全てが、何もかもがもっと秀でていたならよかったのに。
動画の収益は山分けでお小遣いにもならない微々たるもの。バイトを掛け持ちして、ダンスの練習をしながらあれこれ模索して自分に合うものを模索し続ける日々。
こんなの、嫉妬や妬みが生まれない訳が無い、そうでしょう?
――苦しい、苦しい苦しい苦しい
この先、あたしはどうしたらいいのだろう。
就活できるほどの特技もスキルもない。でもお金はないし動画を撮る以外に便利で美味しい方法はない。
好きで始めたことが、こんなにも優劣と現実を運んできて苦しくさせるなんて知らなかった。周りはみんな褒めてくれてたから知らなかった。それがただの社交辞令だなんて知らなかった。全部が嘘だったなんて、知らなかったの。
「あたしは、どうしたらよかったの…」
なんでこんなに苦しいの?
【題:心の迷路】
この声が届いていたら結末は変わっていたのかな。
諦めることは昔から得意だ。我慢と違って終わりがあるし、継続するよりも後腐れがなく傷つかない。
痛いのも苦しいのも嫌いな私には必須のスキルであって同情や憐憫などされる謂れはない。強がりだと思うのなら好きにしたらいいよ、私は否定したからね。
いつか先輩が好きだと言っていた花を束ねて、よく口ずさんでいた洋楽の歌詞に合わせて水色のリボンで飾った。
英語なんて話せもしないのに雰囲気だけでそれっぽく歌うのを、変なの、と思いながら聴き流していた。
風が吹いて、花びらがひとひら舞って、空と海の色に紛れて見えなくなった。あんなふうに過去を一つずつ失くしていくのだろうか、なんて厨二っぽい思考に一人嘲笑していると目的の場所に着いた。
なんてことのない、ただ海が見えるだけの高台である。昔はよくここを通って学校や職場に向かったものだ。苦行でしかない日々に、この景色は地獄への行路でしかなくて、跡も何もないけれど涙と嗚咽が染み込んだ私の軌跡だ。
「もう、つらくない?」
聞き慣れた声にゆっくりと振り返る。
短い黒髪を風に靡かせて、トレードマークの白いキャップとTシャツを身に着けた、初恋の女性が立っていた。夏だというのに真っ白な肌が痛々しい。服の下に隠れた注射痕もほんのり香る薬剤の匂いも先輩が奮闘した証しだ。
「今年もさ、ちゃんとこれたよ」
そうだね。
「まさか自分がこんなことになるとはね」
先輩は髪が短い方が似合っているよ。
「もう終わりなんだってちょっと嬉しかったのにな」
…。
「あたしも、そっちがいいなあ」
私は、嫌だな。
「もし会えたら今度こそ一緒になろうね」
それは、うん、そうだけど、
それ以上は行かないで、お願いだから、まだ、
「空も海も、きれいだね」
【題:行かないでと、願ったのに】
信じられるものなんてどこにもない
何不自由ない、とまではいかない冷めきった家庭だ。
昔ながらの長男第一主義の考えが色濃く残る田舎町の一般家庭である。別にそれ自体に問題はない。時代錯誤だろうが家を出てしまえば関係ないことなのだから気にすることなど一つもないのだ。
そう、家さえ出てしまえば、ね
やりたいことも将来の計画も何もなかった私には逃れられないものだった。長男である弟ばかり気にする家族の中でただ両親の関心や愛情を求めた。殴る蹴るの暴力や聞くに堪えない暴言であっても、それは私にとって愛情表現の一部として認識する以外の選択肢はなかった。
無駄に反抗して痛い思いをする妹がバカだと思った。軽いビンタや蹴りや踏まれるだけなら怪我もせず大した痛みもないのになぜ耐えないのか、ずっと疑問だった。
数年もして、成人してようやくわかった
耐えてきた私の精神も身体もボロボロで従順になる他に選択肢はなかった。いくら壊れても妄言と断じて言葉すら届かない。
対する妹は、絶対的な味方を得て結婚も子供も、絵に描いたような幸せを手に入れていた。
一体何がそうさせたのか、私には終ぞ知り得ないことだ。
両親が離婚するための話し合いが行われた
さっさと壊れてしまえ、と思う私にはどうでもいいことだった。明日の天気よりもどうでもいいことで、不幸になればいいとすら思う相手に一欠片の同情すらない。
話し合いがはやく終わるようにと分かりやすく注釈もして、それでいてどちらにもつく気はないと宣言してその場を離れた。はやく終われ、終わってしまえ、いらない私を捨てて自由にしてくれ。
選択肢はあっても選ぶ権利のない私にできること
きっとは必ず訪れるものであって、それは望まれたこと。終わりにすること、お金も時間も手間もかけなくて済むにはどうすべきか、そんなことずっと前から言われ続けていた。どうにか抗って罪悪感と後悔でいっぱいにして壊したいから、奥歯を噛み締めて耐え抜いた。
私の努力をどうか、どうかあいつらに思い知らせたい。
この背に羽が生えることなんてありはしない
もし生えることがあったならその全てをガラスの破片に変えてあいつらに突き刺してやろう。私の痛みや悲しみの全てを受け止めて死んでほしい。
その選択をさせた責任を果たしてほしいの
【題:揺れる羽】
網戸越しに目が合った黄色の双眼にゾッとした。
昔から人と関わるのが苦手だった。話も続かないし何を話せばいいのかも分からなくて、ひたすら従順に言われるがまま都合のいい人間にしかなれない。
もっとも酷い記憶、というか決定的な出来事が起こったのは小学生の頃だろうか。特に親しくもなければ話すこともほとんどなかった担任に連日呼び出され怒鳴られ脅されたことがあった。原因はいじめだった。私が首謀者で単独犯として責任を負わされ住所まで勝手にばらまかれて知らない車に追い回されたり待ち伏せされたり恐怖でしかなかった。それを被害者だと宣うクラスメイトとカースト上位の数人が嘲笑っているのをみて完全に人間不信となった。
つまりはトラウマ第一号だ。
「お前なんて消えてしまえばいいのに」
今、その言葉通りにしなかったことを後悔している。
私の対人関係から、計画性や頭の出来、身体能力、容姿、言動や考え方、ちょっとした癖に至る全てをクラスメイトの前で晒された挙句否定された。劣等生のモデルとして私以上の適任はいないのだと言われて、プツン、と何かが切れる音がした。
涙なんてでないし、言葉どころか声も出ない。俯くこともなく、ただ視線を教室中に巡らせてその全てが敵だと認識したときようやく教師の顔をみた。汚い人間特有の汚い顔と言葉で全員の思考を絡め取っていく。こんなものがカリスマ性と呼ばれるなら、大昔の独裁者の名でも名乗ればいい。この教室において教師とは独裁者以外の何者でもないのだから間違ってはいないだろう。
ずっと近所を歩き回っていた猫をみて可愛いと思った。
首輪もつけず自由気ままに己の生を全うする姿が心底羨ましく哀れだと思った。黄色の双眼が私をみて、すぐに興味を失って去っていく。
別に方法なんてどうでもよかった。報復だの復讐だの、そんな大層なことは望んでいない。ただの一度も聞かれなかった発することも許されなかった私の意見を、今なら言えると確信した。
廊下側の一番前の席、最も出入り口に近い場所、最高学年にあてがわれた高層階の教室。条件は整っている。
スルリスルリと流れ出る言葉は非難がましく言い訳のような自己保身のための身勝手なものでしかない。意見とはそういうものだけれど、私が言うともっと酷いものに感じる。
椅子を引っ張って廊下に出る。誰も止めはしない。窓際に沿わせて椅子を配置し、細く開いた窓を全開にする。
上履きを揃えて椅子に立つ。最早誰もみていないことを示すようにドアが閉められる。外は風が強く吹いている。下を向けば枯れ葉だらけの地面があるだけ。
振り返って、小さく頭を下げて、窓枠に足をかける。
バンッと大きな音がしたけどもう遅い。遠ざかっていく現実に安堵を覚えて小さく息を吐いた。大きな衝撃のあと身体中に亀裂が入ったような苦しさで覆われて意識が朦朧とする。
思い出したのか、私の妄想なのか、単なる悪夢か。
どうでもいいけれど、私の人生とはどこまでもそれと同じような景色が続いている。
あの黄色の目をした猫はどこかで生きているだろうか。
…そういう感想しか出てこないの
【題:どこまでも】