――ほろ苦いのが丁度いいね
甘いものが苦手だというあなたのためにダックワーズを作った。甘さ控えめで、片手でつまめるような、簡単だけど手が込んでいるように見えるもの。あれこれ探して見つけたレシピはあなたにピッタリなものだった。
結構がんばって作ったのだ。要領が悪いせいで予定時間の倍はかかった。卵白と卵黄を分けるのを失敗するし、メレンゲは泡立ちが悪くて腕が攣りそうになるし、配分ミスして天板に乗り切らなくて焦るし。もうクタクタである。
バタークリームはコーヒー味にしたけど、レシピの画像みたいにきれいに混ざらなくてインスタントの粒が残ってしまった。味は問題なかったから粗熱がとれた生地に挟んで隠しておいた。
仕事から帰ってきたあなたは疲れた顔をしていた。
夕飯も食べる気力がないと言ったからお風呂に誘導して、その間にコーヒーとダックワーズを準備する。夕飯は食べられなくてもおやつくらいなら平気だろう。たぶん。
わくわくしながらテレビを眺めていたら静かに戻ってきたあなたに気づかなくて、後ろから抱きつかれて心臓が飛び出るんじゃないかというくらい驚いた。くつくつと笑う声に少し腹が立った。
あなたは机の上にあるおやつに気づいて、何のためらいもなく頬張った。不格好でおいしそうとは言えない見た目のそれをおいしいと言って褒めてくれた。それが堪らなく嬉しい。
大きな手を握って、握り返されて
何気ない仕草の一つに年甲斐もなくはしゃいでしまう。
どうかあと少し、この幸せな夢が覚めませんようにと願うのだ。あなたの声を、体温を、優しさも何もかも全てを忘れたくないの。
【題:そっと包みこんで】
みんながいいよって言ったから美容院の予約をとった。
もう12冊目になるノートを可愛くデコっていく。青色のノートだからこれからの季節に合う海をイメージしてみた。カラーペンでイラストを描き、シールやラインストーンでコラージュ風に仕上げていく。最後にわたしたちの名前を書いたら完成。
「喜んでくれるかな」
ノートに今日の出来事と連絡事項を記して、机の真ん中に置く。ちゃんと希望の髪型からオーダー方法まで詳しく書いておいたから大丈夫だよね。
次の日は目一杯オシャレを楽しもう。待ち遠しいな。
アラームの音で目が覚める。最近流行りのポップで可愛らしい曲に変わっていたから昨日は『わたし』の番だったのだろう。
丁寧に手入れされた髪と肌は見事にツヤツヤプルプルで、部屋の中もクローゼットの中も夏仕様になっていた。さすが『わたし』だ。完璧でしっかり者の私たちのお姉ちゃんは頼りになる。
机の上のノートはデフォルメされた私たちの似顔絵ときらめく海面をモチーフにしたコラージュで可愛らしくデコレーションされている。
「かわいい」
まじまじとデコレーションされた表紙をみて堪能してから中を確認した。前の日から1週間経っていたから11冊目も確認しておかなければいけない。とりあえず昨日の記録を読んで、美容院の予約がされていることが分かった。オーダー方法からその内容を書いたメモまである。抜け目ないな、ありがたいけど。
時間までまだ余裕がある。作り置きされているだろう朝食を食べてゆっくり支度しよう。
「便利な人格ばっかりだったらいいのにね」
私のようなだらしないやつは出てこなくていいだろうに。この身体は大変だな、本当に。
【題:昨日と違う私】
紅を差して、今日もまたステージにあがる。
トンッ、と弾みをつけて光の真ん中へ飛び込む。
手首につけた鈴をシャンシャンと鳴らし、鮮やかに染められたシルクを泳がせる。
ほう、と嘆息を漏らす客の姿を確認して自然と口角が上がる。曲と曲の間で動きを止めると焦れた様子の客がコールする。
「舞ってくれ」
ただその一言に従順であること。それが私の仕事だ。
客を楽しませてチップを上乗せしてもらえるように愛嬌を振りまくのも忘れずに。特に熱心に観ている客にはサービスしておく。
「待って」
ステージから降りた途端に呼び止められる。振り返ると真っ赤な顔をした酔っぱらいが金貨をひらつかせ、いやらしく笑っていた。定番の誘い文句を言おうとするから手近な見習いを呼び寄せて花飾りのついた籠を酔っぱらいに向けさせる。
こういう店では舞手や見習いに手を出すのはタブーである。見習いに気をつけるよう耳打ちして、ウエイターに告げ口しておいた。これからあの客は出禁になるだろう。
「夢をみるのは勝手だけれど、ルールは守らないとね」
【題:まって】
身体の芯から火照る感じがして目が覚めた。
グラグラと不安定な視界とほんの少しの息苦しさが気持ち悪い。熱でもあるのかと計ってみたが平熱だった。
起き上がるのも億劫だ。枕元に置いたボトルに手を伸ばして、でも飲む気力もなくてチャプチャプと音をたてて揺らす。ボトルの中で激しく揺れる水面はまるで荒れ狂う海のようだ。ここに船を浮かべたら一瞬で波にのまれて沈むだろう、なんて。
ぼんやりと眺めていたら、つい先日やっていた映画を思い出した。あれは流氷にぶつかったのが原因だったか。
冷たい海に放り出されて凍えたり、水の力に飲み込まれ溺れたり、さまざまな最期をみた。
ラストに投げ入れたハート・オブ・ジ・オーシャンは誰に届いたのだろうか。
「…私には縁のない話か」
身を挺して助けてくれるような愛ってどんなものだろう
【題:まだ知らない世界】
バカには可能性がある。
よく、勉強ができなくてもいい、とか言う人いるけどどのレベルの話なんだと聞きたい。言葉を理解して話せればいいのか、文字が書ければいいのか。お釣りの計算ができるだけの知識、テレビや新聞の情報を精査できるだけの知識、物事を効率的に回せる頭脳や器用さ。
バカの基準はどこにある?
忙しいという理由でゲームを与えられた。一人遊びできるように、手間を減らすために、時間を金で買う。
小さい頃はそれでよかった。親も周りも目の届く範囲で大人しくしている子どもは賢いと褒めた。
成長すると大人しいだけの子どもに不安を覚え無理やり外に放り出した。人間関係や勉強、社会経験を積んで大人になっても困らない準備をしろと叱りつける。なのに門限だの家族サービスだの金銭面などで子ども扱いをしてあらゆる活動に制限をかける。
ゲームなんて、と与えて得をした人がそれを言うのだ。
息を吸う。息を吐く。
当たり前のように褒められた生活をいきなり奪って怒鳴りときには手を上げる。
そりゃあ反抗したくなる。するに決まってる。今まで認められていたのに環境が変わるのを境に悪だと怒鳴られるのだから。
息を吸う。息を吐く。
画面の向こうの友人は遥か海の向こうで笑っている。人間に生まれた宿命だと言った。納得できなくて不満をつらつらと並べた。
ドアが開く。荒々しく、ノックという礼儀も欠いて、非常識だと怒鳴りつけてくる非常識な人が来た。
俺が英語で話しているのを目の当たりにして、目を輝かせた。学校の勉強にはついていけなくてバカだと罵った俺を天才だと評した。
その日からまたゲームを与えられた。
息苦しい。友人と話していただけだ。誰も教えてくれなかった優しさも喜怒哀楽もゲームを通じて友人が教えてくれた。それだけなのに、それだけを強制するのか。
本当はさ、他の言語だって話すだけならできるんだ。
ゲームの中ならあらゆる言語や知識が飛び交ってる。
間違えてもやり直せる。
失敗を重ねて経験値を貯めて知識も技術も増えていく。
何より、大切な友人ができるんだ。
「…もう壊さないでくれよ」
【題:酸素】