「ぜったい、だいじょうぶだからね!」
小さな手が、僕の頬をはさんで強引に上を向かせた。悪意なんて微塵も感じられない無邪気な笑顔が視界いっぱいに映る。こつん、と額を合わせてもう一度同じ言葉を繰り返した。
小さな太陽みたいだと思った。
なんの根拠もないくせにその笑顔がすべて証明しているようだった。やまない雨はない、とか、そういう胡散臭いポエムとは違って目の前に完成品をぶら下げてそれ目掛けて走り出させてしまう、なんというか、パワーがある。
バイバイって小さな手を振りながら、反対の手を親に引かれて去っていく見ず知らずの子ども。僕と同じネームバンドをつけているのが不思議なくらい元気な様子だった。
いつか死んでしまうんじゃないか、もっと苦しむことになるかもしれない。尽きない不安とそれを助長する慣れない環境がつらくてしかたないのに、あの子はすごいな。
「…ぜったい、大丈夫だよね」
【題:部屋の片隅で】
手が届きそうで届かない、そんなもどかしい距離が私たちのふつうだった。
あの日もそうだった。普段は明るく、まるで無邪気な子供のように天真爛漫なあの子は時々無表情になるときがあった。感情や思考がごっそりと抜け落ちたような、生きている人間らしさを感じられないような、どこか虚ろな表情。
ひとりきりになったときに時々するだけだったのが、あの日は誰といても上の空で相手の視界から外れた瞬間に無表情になっていた。
…不謹慎ではあるけど、私がまだ知らないミステリアスな魅力を目にすることができて幸せだった。
あの日、半休だったから生徒は学校から追い出されるように下校した日。
あの子と同じ通学路を茹だるような暑さの中歩いていた。途中に踏切があって、そのときは遮断器が降りていてあの子は白線の前で立ち止まっていた。
ゆっくり歩けば立ち止まらずとも通れるようになるだろうとカタツムリのようにのろのろ進んだ。予想通り電車が大きな音を立てて近づいてきた。ぼんやりと前をみていた私の視界には電車と、あの子が鞄を地面に置く様子が映る。
「、あ」
あっという間だった。本当にあっという間だった。
止められなかった、止められる距離にいなかった。いや、止めなかったが正しいのか。
私はきっと人殺しだ。あの子を見殺しにした。
助けたかったけど助けたくなかった。なにか理由があったのかもしれないが私はそれを知らない。苦しそうなことだけしかわからなかった。
だから私は、あの子を殺した殺人犯なんだ。
【題:距離】
薄氷に手を添えて、浅い水たまりの中を覗く。
私の体温で溶けていく氷と、冷たい水の塊に温度を奪われていく指先。じわじわと手の形に溶けていって、静かに水底に沈むのをじっとみていた。
もう誰も、私の行動を諌めてくれる人はみんな、いなくなってしまった。
一緒にいると煩わしいのに、いなくても心をぐちゃぐちゃにかき乱して煩わせるなんて。勝手な人たちだ。
じんじんと痛む手を水底から引き抜く。たった1分も経たない間にすっかり冷えきって感覚が鈍っている。
ゆっくりと握ったり開いたりして動きを確かめ、今度は少し力をいれて握り込む。
――かしゃん
薄っぺらな氷が小さな音を立てて割れ、浅く溜まった水が飛び散る。まだ完全には明けきらない冬の朝日を反射してきらきらと光るのはきれいだ。その後は地面に落ちて吸い込まれていく儚い宝石のようだった。
こんな私にも朝がくるのだろうか。
一生、明けてほしくない夜があってもいいじゃないか。
思い出になって風化していくなんて許せない。
「…寂しい」
【題:冬のはじまり】
きっと、この幸せに意味などない。
あの人に見向きもされなくなってどれくらい経っただろう。思い出せないほど昔ではないはずなのに思い出したくない。
毎朝、顔を合わせるだけで挨拶もほんの少しの会話すらない冷めきった関係。夫婦、という名ばかりの他人との同居生活はひどく淡々としていて何の軋轢もなくひんやりとしている。それでも不定期に夫婦らしい営みがあって、もう愛だ恋だという歳でもないのに愛の感じられないそれらが虚しい。
そうだ、あの日、珍しく朝帰りをしたあの人を出迎えたとき甘ったるい香水の匂いがしみついてた。洗濯しようと広げたシャツにはファンデーションがついていて、ジャケットにアイロンをあてようとしたらポケットにピアスが入っていた。あの人も私もピアスホールすらないのに。
それで無理なんだなってわかった。納得してしまった。
嫌いになったかと言われればそれはちがう。そもそも嫌いになるほどの情もなかった。許すも許さないもない。そういうのも全部ひっくるめてあの人と私の関係は成り立っているのだ。
目には目を、というように私も溺れていった。
あいにくあの人ほど破綻した倫理観は持ち合わせていないから、今まで我慢していたことを堂々とやってみただけ。
ずっと店頭に並ぶものを横目に通りすぎていたけどそれをやめた。画面の向こうで美しくなっていく姿を何度もみて覚えていたから実践した。たったそれだけで、すれ違う人々の視線を釘付けにした。
学生なら高校デビューとかいうやつで、今なら垢抜けとでもいうのだろうか。なんでもいいけど私は私を着飾ることに溺れた。
本当に見てほしかった人には見てもらえないこの姿。
―この上なく幸せで、どうしようもなく虚しい人生よ
【題:微熱】
何十年かぶりの家族旅行だった。身体は疲れきっていたけどまったく嫌な感じはしなくて、心地よい疲れとはこのことかと納得する。こういう疲れならたまにはいいかもしれない。そう思いながら帰りの飛行機に揺られながら目を閉じた。
たぶん、これは夢なのだろう。眠る直前まで小さな窓の外をみていたからこんなにもリアルな夢をみているのだ。
飛行機の翼に何かがしがみついている。高速で雲の中を飛ぶのを楽しむように、鳥のような羽に覆われた手のようなものを広げて風を受け、そして流す。
気味の悪いそれをみていたら、黄色の目がギョロリと私の方を向いた。鳥のように大きくてまん丸な目が、人間の顔に無理やりはめ込まれている。なのに口や鼻は人間のまま。
あまりの光景に目も離せずにいると、それは勢いよく飛行機の翼から機体へと這ってきて小さい窓いっぱいに顔面を押しつけてきた。無感情だった顔が喜色いっぱいに笑う。とても嬉しそうで、幸せそうで、安堵しているように感じた。でも気持ち悪い、すごく気持ち悪い。得体のしれないものに喜ばれる自分の存在すら気持ち悪くなるような、そんな顔。
これは夢だ、夢でなければいけない。なんで、どうして、こんな夢を。
ガクン、と大きく機体が揺れた。驚いて目を瞬かせると同時にアナウンスが流れる。もうすぐ着陸するという内容だった。ハ、と短く息を吐き出して、横顔を照らす夕日に気づいた。どうやら雲を抜けたらしい。夕闇と眩しい黄色の光が混ざってとてもきれいだった。そう、夕日はきれいだった。きれいだったんだ。とても、きれいで、きれい。
「…あの子と同じ」
そういえば、夢の中のあいつも同じ顔してたっけ。
あの子はもういないのに、変なの。
【題:はなればなれ】