ずっと同じことの繰り返し、毎日毎日飽きるくらい繰り返す。それが日常で、当たり前のことだ。
ドラマや映画で「当たり前のことなんてない」と涙ながらに叫ぶ人たちの気持ちなんてわからない。だって毎日当たり前のことがない、新しいものだらけの世界のほうがよほど恐ろしいじゃないか。
―なぜそんなに特別なことにこだわるのか、理解できない
隣でグズグズと鼻をすすりながら映画の世界観に浸る彼が羨ましいと思った。
ふつう、というにはあまりにも感受性が豊かすぎるこの男が血を分けた兄弟だなんてありえない。ずっと幼い頃から周りに洗脳されるが如く言われ続けたことだ。
今さら気にすることではないけど、彼のことも私のことも否定するのにうってつけの言葉だ。
両親も友人も人間として生きるのに必要なツールだったと思えば辛くもない。喋るだけの機械に囲まれて育っただけ。差があるのなら、彼は信じる強さがあって私は諦める強さがあっただけ。
擦り減るものは同じはずなのにこんなにも結果がちがうなんて、もっとはやく知りたかった。
「ティッシュならいっぱいあるから使いな」
そう言って、ちょっとお高めの鼻に優しいティッシュを箱ごと渡された。慰めの言葉なんかよりずっと現実的な優しさが心地いい。
また明日がくるのならば、これに似た優しさが転がっていてくれたらいいのに。
【題:また明日】
気づいたときにはもう手遅れだった。
友だちやクラスメイトの家族の話を聞くたびに、そんな幸せ物語なんてあるはずないのに変なの、と思った。
でも変なのは自分だと薄々気づいてはいた。だから否定も肯定もしないまま曖昧に笑って誤魔化すことを覚えたのだ。
「そういうのやめてよ!」
親に向かって叫んで怒鳴って、かと思えばお菓子やおもちゃを要求して、要求が通れば機嫌よく甘えだす。
そんな姿にとてつもない違和感と気持ち悪さを感じて、誰のことも信じられなくなった。
思春期特有の反抗心かと思ったが大人になった今でも変わらない。
ショッピングモールで喚く子どもや友だち同士で騒ぎ立てる学生をみかけるとモヤモヤしてしかたないのだ。自分には許されなかったそれらを、そんな振る舞いをする勇気もなかった自分を。そっか、妬んでたのかって思い知らされる。
先日、大病を患って長期の入院が決まった。
あまりにも突然だったけど、ようやく自分の番がきたとなんだか安心したのだ。
そのときの親の反応には、もう、笑うしかなかった。
かわいそうな子
代わってあげられたらいいのに
そんなボロボロになるなんて堪えられない
何でも言ってね、何でもするからね
お金は気にしなくていいからね
保険金を父が奪おうとしてる
頼れるのは母だけでしょう
まあ、言いたいことはいろいろあるけど、ひどいもんだ。
昔から病気がちな弟妹が病院にかかるたびにみせていた執着を今さら私に向けてくるのか。散々放ったらかしてきた無駄に健康なストレス発散の捌け口を子どもだと認識していたのか。なるほどね、なるほど。
じゃあさ、
そんなに執着してくれるならさ、
どこまで尽くしてくれるの
私を、子どもを、愛しているのならさ、
どこまでできるの?
執着って一種の愛みたいなものでしょ?
弟妹たちにしてきたように愛してみせてよ
…できないだろうけど
【題:愛があれば何でもできる?】
自分が死ぬ日時を知りたい
こんなこと言ったら絶対に精神病だの異常者だのいわれてバカにされるのだろうね。全部を病気や異常のせいにしておけば解決するもんね。
そういうことしか考えられないくらい私の人生はどん底の底辺にある。見下されることしかない圧倒的な最下位。
一度だけでいい、年月日を確認したらすぐに見えなくなっていいから、遠い先の未来でも今すぐでも構わない。
何もかもを無視して今一番優先されるべき私の中の私の希望を叶えてやりたい。
底辺なこと、毎日刺される針や無駄な治療、お金だけかけさせる邪魔な存在、それを私が消し去ってやるの。
そうしたらもう私はつらくない
人が嫌いなわけではない、でもどうしようもなく苦手で近づきたくもない。それなのに四六時中、人に囲まれて、話し声は聞こえるのに私には何もなくて、必要なことですら無視されてしまって、ずっとずっと痛くてたまらないのに痛み止めすらもらえない。
嘘なんてついてない、仮病でもない。ハンマーで殴られたときのように痛みが波状に広がって思考もままならない。
それなのに嘘なんてつけるわけないでしょ。
何もしてくれない無能な病院は大嫌いだ
ここを出るには死ぬか死ぬ気で治療拒否するしかない
この病気は致死性だけは高い
薬を飲まなければ簡単に死ねる
どうせ痛いのなら希望があった方がいい
死ぬ覚悟はいつだってできてる
はやくはやく
【題:もしも未来が見えるなら】
目が、あった。
その色はついさっきまで食べていた桜餅のようだった。柔らかな薄紅色を瑞々しい萌葱色へと移り変わる、その経過を表しているようだった。
目が離せない。
ゆっくりと近づいてきたそれは、信じられないくらい真っ白な手を伸ばして僕の顔に触れた。
ゆっくりと輪郭をなぞり、なにかを確かめるようにじっと僕の目の中を覗き込んでいる。
満足したのか、これまたゆっくりと離れていくそれは少し淋しげに笑ったようにみえた。
ざあ、と音を立てて強く風が吹く。
柔らかい吹雪が視界を覆い尽くして、かろうじてみえたそれは小指をたてて僕をみつめていた。慌てて手を伸ばそうとして、グッと力強く後ろに引っ張られた。
華奢というには細すぎる皺々の骨ばった手が肩を抱き、もう片方で視界を塞ぐ。
「おまえにはやれない」
はっきりとした音が風の中に響いた。まるで、洞窟の中にでもいるように反響して聴こえた。外にいるはずなのになんでだろう。
気づけば見慣れた庭にいた。なぜかばあちゃんに後ろから抱きつかれていて、泣いていた。いかないで、いかないで、と小さく呟きながらばあちゃんが泣いている。
そういえば、じいちゃんはこの庭でいなくなったんだっけ。そう、いなくなった。亡くなった、ではなくいなくなった。
「おまえまで連れていかれなくてよかった」
あんなに咲いていた桜はこの一瞬で半分くらい散ってしまった。庭に散らばったはずの花びらは数枚を残してほとんど見当たらない。どこかへいってしまったのだろう。
ひらり、1枚の花びらが降ってくる。それは庭にあるものよりずっと濃い色をしていた。まだ泣いているばあちゃんの頭にのって、じわりと溶けていった。その部分だけもとの白髪と混ざって桜と同じ色になって、瞬きしたらもうもとに戻っていた。
なんだかよくわからないけど、ばあちゃんはここにいてはいけない気がした。遠くから聞こえる風の音が来る前に離れなければいけない。
皺々の手をひいて家の中へ戻る。2つ並んだ座布団に座って縁側の窓を閉めた。途端、強い風が吹きつけて桜を揺らし残った花びらを攫っていく。宙を舞う暇もなく、飛ばされていった。どこか、遠くへ。ばあちゃんも僕も行けない遠くの空へ飛んでいった。
【題:遠くの空へ】
『海に行こう』
メッセージアプリの通知がきてすぐ、自宅のインターホンが鳴った。どうやら僕に拒否権はないらしい。
にっこにこの笑顔で助手席に押し込まれ、日焼け止めを渡された。日焼けするとひどい肌荒れがする僕には必須アイテムだ。後部座席には大きなカバンが2つ、きっと片方は食料でもう片方は着替えかなにかだろう。
今さら目的など尋ねる必要はない。彼女の突飛な行動は万全の準備があってこそ発生するイベントだ。僕はただそれを見届ける、カメラのような役割だ。
海につくと、もう既に日が傾きはじめていた。
海水浴するような格好もしていないし、花火なども持っていなかったから特に注意を受けることもなかった。他にちらほら客がいたのも大きいだろう。
裸足になって、しばらく浜辺を歩いた。打ち寄せる波がたまに足を濡らしては去っていく。ぽつりぽつりと会話にも満たない言葉を交わしながら、斜陽を眺めつつ歩く。
彼女は鮮やかな色のストールを肩にかけていた。
風をうけて宙をはためくたび空の色と同化して、まるで空そのものを纏っているかのようにみえた。
なんというのだったか、サテンだかリネンだかそんな感じの薄く柔らかい生地だから、光を反射する海面の揺らぎにも似ていて目が滑る。
どうにも彼女の存在があやふやに感じてしまって、こう不安になるのだ。
「もうすぐお母さんの一周忌だね」
やけにはっきりと、聞こえた。ちがう聞こえていない。いやそんなことはありえない、ありえるわけがないのに。
「近くにホテル予約してあるからね。ついでに観光もしてゆっくりしよう」
細く緩やかに弧を描く口元も、パチリとした二重の瞼も、癖のない明るい髪色も。彼女とそっくりなのに随分と若々しく愛らしい。年相応の姿、そう、娘と同じくらい若い女性の姿だ。
いや、この娘は間違いなく僕と彼女の大切な娘だ。
彼女は名前の通り、夕日に溶けていってしまった。
娘が肩にかけているストールは彼女が愛用していたもので、僕が結婚記念日に贈ったものだ。彼女の名と出会ったときにみた情景とを思い起こさせる色だったから。
まさか、亡くなるときまで同じだなんて、思わないじゃないか。
「ね、このストール素敵だね」
お父さん、と。今まで前を歩いていた娘が横に並んで僕を見上げる。ポンポンと叩くような撫でるような仕草まで彼女とそっくりだ。
こんなにも、こんなにも美しい夕日に沈まずにはいられないだろう。
なあ、愛しているんだ。過去になってしまった姿もその名残りを受け継ぐ姿も、どちらも、愛しているんだ。
どうか、もう少しだけ。もう少しだけ浸らせてくれ。
僕はもうきみたちに沈みきってしまったから、戻ることはできないんだ。戻りたくも、ないんだ。
【題:沈む夕日】