『海に行こう』
メッセージアプリの通知がきてすぐ、自宅のインターホンが鳴った。どうやら僕に拒否権はないらしい。
にっこにこの笑顔で助手席に押し込まれ、日焼け止めを渡された。日焼けするとひどい肌荒れがする僕には必須アイテムだ。後部座席には大きなカバンが2つ、きっと片方は食料でもう片方は着替えかなにかだろう。
今さら目的など尋ねる必要はない。彼女の突飛な行動は万全の準備があってこそ発生するイベントだ。僕はただそれを見届ける、カメラのような役割だ。
海につくと、もう既に日が傾きはじめていた。
海水浴するような格好もしていないし、花火なども持っていなかったから特に注意を受けることもなかった。他にちらほら客がいたのも大きいだろう。
裸足になって、しばらく浜辺を歩いた。打ち寄せる波がたまに足を濡らしては去っていく。ぽつりぽつりと会話にも満たない言葉を交わしながら、斜陽を眺めつつ歩く。
彼女は鮮やかな色のストールを肩にかけていた。
風をうけて宙をはためくたび空の色と同化して、まるで空そのものを纏っているかのようにみえた。
なんというのだったか、サテンだかリネンだかそんな感じの薄く柔らかい生地だから、光を反射する海面の揺らぎにも似ていて目が滑る。
どうにも彼女の存在があやふやに感じてしまって、こう不安になるのだ。
「もうすぐお母さんの一周忌だね」
やけにはっきりと、聞こえた。ちがう聞こえていない。いやそんなことはありえない、ありえるわけがないのに。
「近くにホテル予約してあるからね。ついでに観光もしてゆっくりしよう」
細く緩やかに弧を描く口元も、パチリとした二重の瞼も、癖のない明るい髪色も。彼女とそっくりなのに随分と若々しく愛らしい。年相応の姿、そう、娘と同じくらい若い女性の姿だ。
いや、この娘は間違いなく僕と彼女の大切な娘だ。
彼女は名前の通り、夕日に溶けていってしまった。
娘が肩にかけているストールは彼女が愛用していたもので、僕が結婚記念日に贈ったものだ。彼女の名と出会ったときにみた情景とを思い起こさせる色だったから。
まさか、亡くなるときまで同じだなんて、思わないじゃないか。
「ね、このストール素敵だね」
お父さん、と。今まで前を歩いていた娘が横に並んで僕を見上げる。ポンポンと叩くような撫でるような仕草まで彼女とそっくりだ。
こんなにも、こんなにも美しい夕日に沈まずにはいられないだろう。
なあ、愛しているんだ。過去になってしまった姿もその名残りを受け継ぐ姿も、どちらも、愛しているんだ。
どうか、もう少しだけ。もう少しだけ浸らせてくれ。
僕はもうきみたちに沈みきってしまったから、戻ることはできないんだ。戻りたくも、ないんだ。
【題:沈む夕日】
4/7/2024, 1:26:53 PM