入道雲
真っ白な画用紙に、爽やかな青を乗せる。
真ん中だけ、大きな綿菓子のような形を空けておく。ここは、入道雲にするのだ。
青で空を作り終わったら、パレットでその青を薄め、雲の影を染める。
視線を画用紙、パレット、空の3か所で回転させながら、一心不乱に筆を進めると、本物そっくりの空が画用紙に写し取られた。
でも…。
「なにか、違う…」
どうしても、この目の前に広がる、本物の空の方がいいなと思ってしまう。私は絵の中で、この空を美しくできていない。
なにがいけない?なにが変?なにがおかしい?
青に他の色を混ぜた方がよかった?入道雲はもっと大きい方がよかった?本物そっくりに描かずに、オリジナルの表現を加えた方がよかった?
分からない。どこをどうすればいいのか、なにも分からない。
それでも。いつか美術館で見た、あの空の絵のように。
私が描いた絵の方が素敵だって、誰かに思わせてやるんだから。
それまで絶対、描き続けてやる。
夏
ワイヤレスイヤホンを耳に突っ込んで、家を飛び出す。
体内に直接流れてくるのは、大好きなシンガーソングライターの曲。まさに夏、といえるような明るく軽やかなメロディーに乗って、今日もあの電柱へと走る。
サビを聞き終わるまでに行かなきゃ、彼女に会えない。
何回も聞いた歌詞と一緒に、ただ、走っていく。今日は、ちゃんと伝えたいんだ。
『夏の空が 僕らをみてる』
サビの最後の一節が耳に届くのと同時に、僕は叫んだ。
「おはようっ!」
電柱の影にいた君が、ひょっこりと顔を出した。
「おはよう!」
イヤホンを外して、君の隣に立つ。
「…今日も暑いね」
何気ない世間話しか出てこない。
「本当に!ねぇ、そんな中走ってたよね?大丈夫?」
「大丈夫だよ」
「そっか!体力あるね〜」
君は機嫌がよさそうに歩いていく。
「あっ、そうだ!昨日のテレビで…」
君のバラエティー番組の話を、相づちを打ちながら聞く。
話すタイミングを見失ってしまった。
どうして、「待ち合わせしない?」の一言が言えないのだろう。いつまで偶然を装って、毎朝君に会いに行くのだろう。本当に、情けない。
ふいに、大好きな曲のサビが頭に響いた。『夏の空が 僕らをみてる』頑張る人たちの背中を、暖かく押してくれるような歌詞。
「あのさ…」
夏に背中を押されたような感覚に身を任せ、伝えたかった言葉を紡いだ。
ここではないどこか
かしゃり。
道端のものにカメラのレンズを向けて、写真を撮る。アスファルトの隙間から伸びる花を。青から赤に、藍に変わる空を。アメンボが横切る水面を。綺麗だと思ったものはなんでもカメラで切り取る。
戦利品が詰まったカメラを首から下げ、家に帰る。そうしたらすぐにパソコンを立ち上げ、プリンターの電源を入れる。カメラを繋いで、撮った写真を一枚残らず印刷して、一番輝いて見えるレイアウトでアルバムにまとめる。それが私の日課。
今日は本当に素敵なものができた。
橙と藍が共存する絶妙な空の色の真ん中で、道路にいた雀が遊んでいる。緑が眩しい木の下には、とても大きなアゲハ蝶。この蝶だけ、拡大して印刷して正解だった。現実ではありえないのに、美しい。
このアルバムを眺めていると、架空の世界へ旅立った気分になる。ここではない、どこにもない世界。似ているようで、全く違う虚構。
そんな世界が大好き。だから写真はやめられない。
君と最後に会った日
「好きです。付き合ってくださいっ!」
小学校の卒業式の日、一年かけて育った思いを君にぶつけた。
君は私立の中高一貫校に行ってしまうから、地元の中学に入る私とは、もう簡単に会えなくなる。
告白するなら、今日しかない。そう思った。
咲きそうで咲かない、桜の木の下。君は珍しく頬を赤く染めて、柔らかく、優しく笑ってくれた。
「ありがとう。俺も好き」
その瞬間から、世界中が虹をまとったように輝いて見えた。この先の未来はずっと明るくて、ふわふわして、きらきらしているような気がする。だって、君が私と同じ気持ちを返してくれたから。君と駅で待ち合わせて、遊園地に行く様子だって、ありありと想像できる。本当に、素敵なもので満たされていた。
そう思ってたのに。
君と最後に会った日が、君に告白した日だって、どうやったらあの日のうちに知ることができただろう。お互いに恋愛の仕方なんて知らなくて、連絡先も交換せずに家に帰って。デートの約束一つすらできずに終わるのが、私の恋だと。知っていたら、こんなに引きずらずに、さっさと諦められた?それとも、今と同じく、みっともなくあの日の君の言葉にすがりついた?
明日は、小学校の同窓会。君は、私のことなんか、忘れちゃった?どうせなら、私の存在すら忘れて、君に似合うきれいな恋人でも作っていてよ。
それでも、もし、覚えていてくれたら…。
繊細な花
いつもの散歩のコースには、3階建ての小洒落たビルがある。誰かがワークショップや展覧会を開いたり、ライブをしたりするような場所だ。
今日はそのガラスの壁に、『繊細な花展』と書かれたポスターが貼られている。生け花かと思ったけれど、立体切り絵作家の個展のようだ。よく見れば、ポスターに写っている蓮の花は、本物ではなく切り絵。触れただけで壊れてしまいそうなほど、繊細な模様だ。
吸い込まれるように、ビルに足を踏み入れた。
中には、作品が収められたガラスケースが点々と並んでいる。桜にユリ、コスモス、椿。その花びらに切り取られた、繊細で美しい模様を主張することなく、ただそこに花が存在している。切り絵は、こんなに静かなものなのだろうか。
ぽつりぽつりと歩いていると、ポスターになっていた蓮の花を見つけた。
水面を模した水色の上に、ただ白い蓮の花が静かにあった。ポスターで見た時は切り絵が主役だと思ったのに、ここでは蓮の花の一部でしかない。細かな花びらの花模様は、蓮の花の輪郭にゆったりと溶けて表に出ない。あるのは、一輪の蓮だけ。
題は、『蓮』とだけあった。確かに、これは蓮以外の何ものでもないだろう。