紅茶の香り
ティーポットに紅茶のティーバッグを二つ。沸かしたばかりのお湯を注いで、香りを閉じ込めるように蓋をする。
お盆にカップを二つ用意して、ティーポットも一緒に乗せる。砂糖は使わないから、スプーンは乗せない。
よし、準備万端。
「紅茶、できたよ」
「おう、ありがとう。ケーキも皿に乗せといた」
ソファに座る彼が笑う。
「ありがとう。このケーキ、本当に美味しそう」
テーブルに二つ並んでいるのは、栗をふんだんに使ったモンブラン。私が栗好きなのを覚えていてくれて、彼が買ってきてくれたのだ。
私も、彼が好きだと言っていた紅茶をカップに注ぐ。
「いい香りだな」
「そうでしょ」
二人分のカップから、紅茶の香りがふんわりとたった。
行かないで
「お父さん、家を出ていくことになったんだ」
ある日突然、明日の天気を告げるようにそう言われた。あまりに自然な離婚の報告だった。
だから、なのか。あぁ、そういうものかと受け入れてしまった。お父さんが家を出ていく。喉元をとんとん叩いて、飲み込んだ。
違和感に気づいたのは意外と早かった。
夕食が二人分しかない。お風呂に入る時間が早くなった。いびきが聞こえない。せんべいの減りが遅くなった。
お父さんがいない違和感が、家の中にごろごろと転がっている。飲み込んだものがそのまま戻ってくる気持ち悪さが、遅すぎる悔いと一緒に私にのしかかる。
せめて、「行かないで」の一言くらい、言っておけばよかった。
ゴミ袋の中の、お父さんの茶碗を見て、私はまた思う。
どこまでも続く青い空
雲一つない青空に、手を伸ばす。
どれだけ伸ばしても、高いところに上っても、決して届かない神秘。
空は壁じゃない。だから、どれだけ高く飛んでも触れるものではない。
そんなことは分かってるはずなのに、それでも僕は手を伸ばす。
高貴な少女に恋するように。
どこまでも高く、どこまでも広い青空に。
すれ違い
空がだんだんと赤く染まってきた。
腕時計を確認すると、約束の時間から二十分過ぎていた。気になる女の子の友達と、一緒に帰る約束ができたというのに。
もしかして、また迷子になっているんだろうか。
彼女はとてつもない方向音痴。半年通った学校で、道に迷っていてもおかしくない。
彼女が寄ってから来ると言っていた、図書室から行ってみようか。
どうしよう。待ち合わせの時間、過ぎちゃった。
ぱたぱたと、足音をたてて階段を降りる。
彼、待っててくれるかな。せっかく恋が進展するチャンスだもん。遅かったね、って笑ってほしい。
「ごめん、おまたせ…」
待ち合わせの昇降口についた途端、そう口に出す。
「…あれ…?」
返事がない…。っていうか、彼、いない?
私が遅れたから?それとも、まだ来てないの?
…迷ってるのかな?私じゃあるまいし。
来てないだけってことに賭けて、待ってみようかな。
やわらかな光
「あさひにてらされた、きんもくせいをみつけたよ」
そう微笑む我が子の頬にも、朝のやわらかな光が差していた