フードコートにて
「だけどお前さん、マスターベーションはするんだろう?」
レタスやチーズやらいろいろ挟んだ不恰好なハンバーガーをかぶりつきながら、げっぷ混じりにアンドレは恥ずかしげもなくそう言った。
「声がデケエよ、アンディー」
俺は咄嗟に周囲を見渡して、人差し指をアンドレの前に付き出してから睨んだ。だけどヤツはヘラヘラ笑っていやがった。
「どうなんだ? するんだろうが。ええ?」
「まあ、俺も男だからな…」
「ほれみろ。で、どれくらいするんだよ?」
そもそも俺はマスターベーションの話をするために、こうしてフードコートでヤツに会った訳じゃない。ヤツはすぐに話をそらすんだ。でも神様はおかしいんだな、こんな性格最悪のゲスを誰もが惚れるような美男子に仕立て上げるんだからな。それに比べりゃ俺は不細工でも美形でもない。たぶん。
「おい、俺はな。こんな下らない話をするためにこうしてお前とくっちゃべってるんじゃないぞ。最初に言ったろう。議題は『恋愛について』だって」
俺は腹が減ってなかったから、アイスコーヒーとドーナツを食べていた。さっきから豚みたいにガツガツとハンバーガーを喰らってる目の前の美男子は俺の言葉を聞くなりため息をつきやがった。
「あのなぁ…お前の言う『小さな人形みたいな女の子』なんていねーっつの」
「いいや、いる。スクールバスでよく見かける、ポニーテールの子さ。人形みたいに小さいんだよ。その小さな子はね、小さな手で大きな本をちゃんと持って読んでるんだ。俺はその子に惚れたんだ」
「いっそダッチワイフと付き合うってのは?」
「アンディー」
俺はテーブルをひっくり返すような勢いで立ち上がり、ヤツを睨み付けた。
「お前こそうるせェよ。まあ、そう熱くならんと、座れ」
「…」
俺は怒りで震えながら、静かに座った。
「俺はな、お前と違ってオッパイの大きい、テクニックも豊富な子と付き合いたいのさ。ふん、『人形みたいな子』ときたか。そんなだからお前は童貞なんだよ」
「お前は童貞じゃないってのかよ?」
「あたぼうよ。四、五人とはやったな」
チクショウ。まだ声が震えてた。ヤツはケンカは本当に強いんだ。
「それでも俺は、あの子に告白するよ。俺は純粋な恋愛をしたいからな」
「ああそ。まあせいぜい頑張りたまえ『オカマさん』?」
俺は席を立つと飲みかけのアイスコーヒーをヤツの顔面めがけてぶっかけてやった。『殺してやる』。その後のことはご想像にお任せするよ。ただ、死にはしなかった。だけど包帯で巻かれたこの顔で『あの子』に告白するのは当分先になったのは言うまでもない。
無題
男はゆっくりと女の子の両腕から崩れ落ちていく。
「心配しないで」
彼は精一杯の笑顔をつくって、泣きじゃくる女の子の頬を拭った。
「君が…ちゃんと天国に行けるように…先に神様にお願いしてくるから…」
女の子は肩を震わせて泣いた。両目から止めどなく涙は流れ続け、血にまみれた彼の軍服に雨粒のように降りかかる。
「だから…泣かないで。死ぬのは怖くないって、たった今から見せてあげるから…」
彼は息絶えた。
女の子は避難サイレンの鳴り響く瓦礫の街の隅で、彼の亡骸を埋葬した。
女の子は「愛してる」と呟くとオーバーコートのポケットからタバコを取り出して咥え、土砂降りの雨の中、傘も差さないで戦車のキャタピラの後を踏みつけながら避難所へと歩いて行った。
アナザー・ストーリーズ
何が不思議かっていうとね、僕以外のほとんどの人間がこの世界という存在に疑問を抱いていないという点なんだ。動物はいいよ、ただ本能に従って動いているだけなんだから。問題は人間なんだよ。何で人間だけがこんなに知的な考え方ができるのにそれをやろうとする人間は少ないんだろうかな? そこが本当に不思議なんだよ。みんなただこの世に生きて、そして死んでしまうのは当たり前だと納得してるのかな? 僕はそうじゃない。
僕はタバコを吸う。そして今日を少しだけ振り返ってみる。
今日の昼休みの後、そう、数学の時間だ。僕はある思考実験をしていた。ほとんど教科書やノートには目を向けず、ただ、教室の黒板の上の方、天井に近い辺りをじっと見つめて思考を巡らせていた。僕はいちばん右端の前の席に座ってて、クレイ先生はそんな僕に目を付けて、「聞いているのかね?」と注意したけど、僕は「イエス」と答えて再び思考を続けたんだな。
『僕は今、授業を受けている。少しだけ眠いのは、昼食の後だったからだろう。さて、僕は今、広大な宇宙の小さな星のそのまた小さな大陸の隅っこで、こうして授業を受けている。こいつは不思議だ。僕は本当にこの世界に存在しているのか証明できるものがなあんにも無いじゃないか。
僕はこうして黒板の上を見ているけど、僕のすぐ背後の世界がどうなっているかなんて、観測しようがない。もしかしたら、暗黒が広がっているだけかもしれない。だけど、僕が消しゴムなんかを落としてみせて、それを拾いながら後ろを見るとちゃあんとそこには教室とクラスメートが存在しているんだ。だけど再び僕が前を向くとすぐ後ろで暗黒が口を開けて僕を飲み込もうとしている。
そもそも、時間は存在しないんじゃないかと僕は仮説を立てているんだ。本当は宇宙も世界も存在しない、あるいはもう一つの僕の物語、アナザー・ストーリーがあってもおかしくないし、いや、むしろいくつものパラレルワールドがあるんじゃないか。それが存在しないとどうして言えよう。だけど、こんな話をしても誰も興味を持たないんだ。つくづく不思議だ』
タバコを吸い終わり、僕は机に向かった。僕の背後は常に暗黒が口を開けているのを感じる。そして、時間は完全に停止して、もう一つの世界の僕が物語を上書きしようと企んでいるんだ。
こんなことばかり考えているのは、今日は僕が生理だったからかもしれない。これだけはどうしようもない。
歯車
ギギギギギ
ゴゴゴゴゴ
ガガガガガ
ギギギギギ
ゴゴゴゴゴ
ガガガガガ
絶えず歯車の噛み合う音が響く、真っ暗な空間をひとり、わたしは歩いていた。
足元は無限の血だまりがあり、その上を靴で歩く度にぴちゃぴちゃと嫌な音がする。
歯車はわたしの頭の上で、いや、ドーム状の丸い世界の天井をびっしりと埋め尽くすように、歯車は噛み合っては回転していた。
わたしはおかしくなったのだろうか。
それとも、世界がおかしくなったのだろうか。
そもそも、この歯車の意味が分からない。
もちろん、地面を満たす血だまりの意味も。
ギギギギギ
ゴゴゴゴゴ
ガガガガガ
ギギギギギ
ゴゴゴゴゴ
ガガガガガ
ぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃ
ぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃ
ぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃ
僅かな震動、僅かな反響、僅かな色彩。
尚も、わたしは歩き続けるしかなかった。
例え、狂っていたとしても。
そうすること以外にすることが特になかった。
立ち止まれば、わたしは今に発狂してしまうんじゃないかと恐ろしくて仕方がなかった。
ギギギギギ
ゴゴゴゴゴ
ガガガガガ
ギギギギギ
ゴゴゴゴゴ
ガガガガガ…
ぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃ…
ぴちゃり。
クス。
クスクス
クスクスクスクス
クスクスクスクスクスクスクスクスクスクス
クスクスクスクスクスクスクスクスクスクス
クスクスクスクスクスクスクスクスクスクス…
…
ジョニー・ビー・バッド
女の子は、自分の部屋の隣の家から、やかましいヘタクソなエレキギターが毎日決まって17時頃に聞こえてくるのがたまらなく嫌だった。たいてい、18時になると騒音は止むのだが、女の子はもう自分の両耳を引きちぎるか、首を搔き切りたくなる衝動に何度も駆られたものだった。チャック・ベリーの『ジョニー・ビー・グッド』をあそこまで不協和音にできるのは、ある意味才能だろう、と女の子は思っては、首筋をさすった。
女の子は何とか首を切らずにすむよう、穏やかなジャズのピアノ・トリオをレコードでかける。そうすることで、心を落ち着かせるのだ。無駄なストレスを溜めないように、一種の精神安定剤として、20世紀の偉大なるジャズ・ピアニストたちの数々の名盤を楽しむのだ。子守唄のような優しいメロディーに包まれながら、女の子はうっとりとしていた。そこに部屋の扉をノックをする音が聞こえてきたので、女の子は音量を小さくした。
「お姉ちゃん、入ってもいい?」
「グラハムかい? いいわよ。どうしたの?」
女の子の弟が頭を垂れたまま、とぼとぼと部屋に入って、扉を静かに閉めた。
「あのね、昨日お姉ちゃんに教えられた通りにね、放課後にマリーに告白したんだ。だけど、彼女にはもう彼氏がいてね、その彼氏というのがあの意地悪なジョニー・バーリングだったんだ」
「ほう」
「それでね、そのジョニーなんだけどさ。すごく意地悪なヤツなんだ。だけど、正直彼は美形だし、僕より背も高い。頭もいいしね。だけど諦めきれないんだよ、彼女のことがさ。どうすればいいのかな、ね? お姉ちゃん?」
「貴方には二つ選択肢があります」
「え?」
「一つ、『その子のことを諦める』。二つ、『そのジョニーなんちゃら君を八つ裂きにして、女の子を無理矢理奪い取る』」
「ふざけないでよ! やめて! 僕は真剣に悩んでいるんだ。からかうならもうお姉ちゃんなんかに相談しないからな!」
女の子は尚も続けた。
「じゃあ三つ。『今からお姉ちゃんと大人の階段を上ってみる』」
弟は顔を真っ赤にして、女の子を思い切り睨んだ。
「お姉ちゃんのクソッタレ! 阿婆擦れ! グズ! クソ野郎!!」
「アンタ、どこでそんな言葉を…」
女の子が言い終わらないうちに、弟は部屋を飛び出して階段をどすどすと駆け降りていった。女の子はペロリと舌を出すと「いつでも待ってるからね…」と呟いた。
いつの間にかレコードも、そしてあの『ジョニー・ビー・グッド』も演奏が終わり、部屋は時計の秒針の音だけが響いていた。