彼の部屋で、練習問題を解く彼を待っていた。彼は見られていると集中できないタイプだから、視界に入らない後方で。
もうすぐ中間テスト。中学に入って最初の定期テストだ。気合十分な彼に、自分の持てる知識をあますことなく伝えよう。実に楽しい時間だ。
彼がふぅっと息を吐いて背筋を伸ばす。解き終わったのだろう。
机の上のワークをチェックしようと立ち上がったとき、鞄に入れていたスマホが鳴った。
しまった、マナーモードにし忘れていた。
指導中に鳴らしてしまったのは初めてで、彼もびっくりして振り返った。私は急いでスマホを取り出し、電話の相手に断ろうと画面を見て、固まった。
3年前に別れた元カノだった。
なぜ急に?
その一言が頭を支配した。だが今その疑問を解決することはできない。彼の前ではまずい。
私はいったん出て断るつもりだった電話に出ることなく、一方的に切断した。
「出なくていいんですか?」
私の行動に異常性を感じたらしく、恐る恐る訊いてきた彼。何と答えればいいのだろうか。
「ええ、フリーダイヤルでした。たぶん何かの営業電話です」
「そうですか……」
彼は納得していない様子だったが、私は話をそらしてワークの丸つけに移った。
指導終わり、何か言いたげな彼を残してそそくさと帰宅する。なぜ突然彼女から連絡がきたのか、それを確かめることが優先だと感じた。
自宅まで待たず、駅で折り返し電話をかけた。彼女は数コールで出た。
『もしもし』
「久しぶり。どうかしたの?」
『どうっていうか、ね。昨日彼氏と別れちゃってさ』
「そう。それは残念だったね」
『いいのよ。重要なことに気づけたから』
「重要なこと?」
『うん。あれから何人かと付き合ったけど……あなたほどの男はいない』
「……そんなことはないよ」
『いいえあるわ。だから、私たちよりを戻さない?』
復縁。それが彼女の望みか。
「悪いけど無理だよ」
『ああ、彼女がいるの?』
「いや、いないけど、好きな人はいるから」
『あら、あなたに片想いさせるなんて凄い人ね』
片想いでもないんですがね。
『なら食事だけでも。まだ付き合ってないならいいでしょ』
「いや、それもちょっと」
『お願い。私の愚痴聞いて。人助けだと思えばいいわ。あ、もう切らなきゃ。LINEするね』
彼女はそう言うと、私の返事を待たずさっさと切ってしまった。
昔からこうだ、少々相手の都合を無視するきらいがある。別に腹は立たない。むしろ懐かしい感覚がした。
「食事か……」
本当に愚痴を聞くだけで終わるとは思えない自分がいる。かつては心から愛した人だ。
私は彼女に振られたのだ。
別れてしばらくは深く落ち込み、食事も喉を通らないほどだった。毎晩泣いて成績も落ちた。受験生でなくて本当によかったと思う。
私の心は揺れた。元カノと食事に行くなんて、一般女性なら不快に思う人が大半だろう。彼もきっと。
やはり断ろう。
そう決めてLINEでメッセージを送る。返信が来たのはその日の夜。彼女に諦める様子はなかった。
「返信しなくていいんですか」
トイレから戻ると、問題を解いていたはずの煌時くんが切り出した。その目は真っ直ぐに問題を見つめていて、私の顔には目もくれない。
「えっと、何のことです?」
「スマホ、さっきから鳴りっぱなしです。マナーモードでもわかるくらい」
「……今は指導中ですから」
「私は構いませんよ」
彼はどうやら怒っている。
「もしかして、見ましたか?」
「私に見られたらまずいんですか」
「まぁ……人のスマホを覗くのはあまり感心できる行為ではないですね」
「いきなり電話してきた謎の女性と、恋人候補の目を盗んでこっそりLINEすることは感心できる行為なんですか」
撤回しよう。確実に怒っている。
「彼女は高校の同級生で、元恋人です。よりを戻したいと言われましたが、断りました。食事だけでもと食い下がられたので、それも断りました」
「……」
彼は問題を解く手を止めて椅子ごと振り返った。
「先生、あなたの恋人候補でいるのは楽じゃないですね」
「煌時くん……?」
「年の差とか、ライバルとか、元カノとか、不安になってしまう。でも先生に『安心させて』とは言えない。それは社会的にルール違反だから」
終始目を伏せたまま語る彼。とてつもなく物悲しいオーラを纏っている。
「私たちって何なんですかね? 周りに認められるどころか、自分たちですら言葉にできない関係なんて、続けていけるんでしょうか」
「……君につらい思いをさせたくはありません。君がやめたいと思うなら……」
続く言葉が出てこない。
「先生」
頬に流れた雫が小さく光った。
「大好きでしたっ……!!」
私はしばらく顔を上げることができなかった。
テーマ「開けないLINE」
今日の夕飯はカレーライスにしよう。
そう決めてスーパーへ向かったのは30分前。
私は今激しく後悔している。
そもそも遠くのスーパーにわざわざやって来たのが間違いだったのだ。いくら息子の好きなじゃがいもが大安売りだったからといっても、この状況はあまりに酷である。
ウチで雇っている家庭教師の高遠先生。彼が目の前で買い物をしている。むこうはこちらに気づいていないが、時間の問題だと思われる。
否、問題なのは時間ではない。彼の連れだ。白いワンピースを着た若い女性と、仲睦まじい様子で歩いているのだ。
息子がこの場にいなくてよかったと心底思う。先生と息子は、今微妙な関係なのだ。決して仲が悪いわけではない。その逆。付き合ってはいないんだが、師弟以上恋人未満というか……
とにかくそんな関係の相手が、他人とベッタリ一緒に過ごしているところに遭遇したら、息子にとっては地獄でしかないだろう。修羅場というやつだ。
私はこのまま見てみぬふりをするか、割って入って事情聴取するか、息子に密告するか、息子というものがありながら他の人間とベタベタした罪で処すべきか迷った。
答えが出ないうちに、先生と目が合った。ガン見していたせいかもしれない。
「おや、煌時くんのお父さん。こんにちは」
こやつ、なんの躊躇いもなく挨拶してきおった。
「先生、どうも」
「ここでお会いするのは初めてですね」
「いつもは近所のスーパーに行きますが、じゃがいもの大安売りと聞いてこっちへ」
「ああ、なるほど。煌時くん、じゃがいも好きですもんね」
何だこいつ、息子のこと知ってますアピールか。
「先生こそ珍しい。デート中ですかな」
言い訳できるもんならしてみるんだな!
「……ええ、まあ。というか、偶然会ったんですよ」
ガーーーン!!
言い訳どころか認めた!?
いいのか認めて!?
私に話したということは、息子にも伝わっていいということか!?
いったいどういうことだ。まさか2人はとっくに別れていた?
いやそもそも付き合ってはいないのだから別れるも何もないのだが。
息子の様子を見ている限り、そのような素振りは一切なかったのに……
私が内心動揺していると、先生がチラリと外に目を向けてから口を開いた。
「そういえば、岡野さん。ここへは車で?」
「え? ああ、はい」
「ちょうどよかった! 私と彼女を家まで送ってくれませんか。もちろんお礼はしますので」
ファッ!!!???
どんだけ図々しいのだこいつ!?
「い、いやそれは」
「いや〜助かります! 彼女と会って買う量が増えたので。そうと決まれば早速レジへ行きましょう!」
先生は私の話を遮り、腕を掴んで歩き出した。
そのあまりにもらしくない強引さに違和感を覚える。いつものキャラと違いすぎる。
私は先生に引っ張られるがまま会計を済ませ、駐車場に出た。その時、なんとなくだが違和感の正体に気づいた。
この2人、トラブルに巻き込まれている。
外にいた帽子の男と、店内にいた黒いTシャツの男が我々を挟むように近づいてきた。帽子の男は私と先生と女性が一緒に行動しているのに気がつくと、足を止めて躊躇う様子を見せた。
我々はそのまま早足で車へ向かい乗り込む。発進間際、横目で見た男たちは案の定合流してどこかへ消えていった。
「お2人とも、本当にありがとうございました!」
ワンピースの女性は深々と頭を下げると、無事に自宅へと入っていった。
「すみません岡野さん。巻き込んでしまって」
「いやいや、お役に立てて何より」
女性は帰宅途中、怪しい男たちに目をつけられ、後をつけられたらしい。怖くなってスーパーに駆け込んだはいいものの、男たちは諦めることなくしつこく彼女を追い回した。そこで目に入った同年代の先生に、こっそり恋人役をお願いしたんだとか。
「しかし怖いですな、知らない男2人に追いかけ回されるなんて」
「ええ、彼女は大変な思いをされたと思います」
先生はひと呼吸おいて続ける。
「煌時くんが同じ目に遭わなければ良いのですが……」
「……」
「あ、ほら、彼はとても可愛らしい顔立ちなので」
先生はそう言って、照れたのか視線をそらした。
私は彼を、少々見くびっていたようだ。困っている女性を助けられる知恵と行動力。それは賞賛に値する。
素直にそう伝えたら、自分なんてまだまだだと言われた。
「私はまだ未熟ですよ。完全とは程遠い」
それを言うなら私だってそうだ。先生よりずっと長く生きているというのに、勝手に修羅場だと思い込んで、彼女の危機を察することさえできなかった。
しかしそれでいいのではないかと私は思う。最後には協力して、彼女を助けることができた。
そう、大切なのは協働だ。
完全な人間など、存在しないのだから。
テーマ「不完全な僕」
「おらそこ! もっと気合い入れてやれや!!」
普段は穏やかな中学校の廊下に似つかわしくない怒号が響く。
水泳部の1、2年生が1列に並んで腹筋を鍛えている様子を、3年の先輩が監視する構図だ。
怒鳴った先輩に指された方向にいた1年生たちはみなビクリとしてスピードを上げた。私はそのことに申し訳なさを感じてしまう。なぜならあの先輩が怒っているのは、100%私だからだ。
今週に入ってから、颯人先輩の私に対する態度がいっそう厳しさを増した。原因が先生を巡る私と彼の因縁であることは明らかだが、突然ヒートアップした理由ははっきりしていない。
限界ギリギリの筋トレを続けていた私は、ついに「もう無理」というラインに達して寝そべった。先輩たちが終了の合図を出す前だ。自分でも情けないと思うが、まだ未熟な体なので致し方ない部分もあるだろう。
しかし、颯人先輩はそうは思わなかったらしい。ずんずんと私のほうに向かってきて、私の腹を踏んづけた。
「ゔっ!?」
予想外のムーブに思わず大声で呻く。周りもびっくりして我々に注目した。3年の先輩たちが慌てて颯人先輩を私から引き離す。
「おい、やりすぎだぞ颯人!」
「……」
先輩は私を一瞥すると、何も言わないままその場を後にした。
「おい、どこ行くんだよ颯人!」
先輩のひとりが追いかけていった。
「岡野くん、大丈夫?」
残った先輩と同級生たちが心配して声をかけてくれる。
「保健室行く?」
「あ、いえ、大丈夫です。そんな強くなかったし」
「そう? でも筋トレはさすがにキツイっしょ? あっちで休んどきな」
「ありがとうございます」
私は立ち上がって教室の中に移動した。適当な椅子に腰掛けて体を休める。
みんなは筋トレを再開したが、その日颯人先輩は結局戻って来なかった。
「颯人さんて、なんかさぁ」
「ねー。尊敬してたのになぁ」
帰り道、そんな噂話が耳に入った。彼を狂わせているのは私だと、まさか言うわけにもいくまい。
心苦しさを抱えたまま校門までの道のりを歩いていると、途中で出ていった颯人先輩を追いかけていった人が走ってきて、私を引き止めた。
「岡野、悪いけどちょっと来てくれないか?」
「なんですか?」
「実は……」
先輩は声を潜めた。
「颯人から事情は聞いた。でも今回のは完全にあいつが悪い。だから謝らせるよ」
そうか、先輩、話したのか。
「……先輩、できれば颯人先輩と2人で話したいのですが」
「え、大丈夫? また喧嘩にならないか?」
「大丈夫です。颯人先輩が悪い人じゃないの、先輩のほうがよく知ってるでしょう」
「それはまぁ。じゃあ、俺は帰るけど……気をつけて行けよ」
お礼を言って、先輩と別れる。颯人先輩は校舎裏にいるらしい。あの海辺だ。
私は初めて先輩に話しかけられたあの日を思い出しながら校舎裏へ向かった。
「颯人先輩」
海に向かって腰掛けている颯人先輩は、しかし海の景色など目に入らないのだろう、俯いていた。私が声をかけても、その姿勢を崩さない。
「あの、」
「さっきは悪かった」
私の言葉を遮るように謝罪の言葉を吐き出す先輩。絞り出すようなその声は、暴力に対して反省はしているものの、やはりどこか苦しげだ。
「怪我は」
「ないです。怒ってもいません。本気で蹴ったわけじゃないの、よくわかってますから」
「フン……お前は相変わらずだな」
先輩は私に背を向けたまま、持っていた石を投げた。トプン、と独特な音がして、波に吸い込まれていく。
「お前のそういうとこが、先生は好きなのかな」
私は言葉に詰まった。
「先生はお前のような、純粋で正直な優しい人間が好きなんだよな。顔も良いし」
「……私は、そんなできた人間では」
「謙遜はいい。俺とは全然違う。歳下に嫉妬して、暴力を振るうような情けない人間とは、雲泥の差がある」
「……そうでしょうか」
私は筋トレを休んでいる間に考えたことを伝えようと口を開いた。
「もしも逆の立場だったら、私も颯人先輩と同じことしたかも」
先輩が振り返る。何を言ってるんだ、という顔だ。私は構わず続ける。
「見てたんですよね、私と先生がカフェにいたところ」
「……気づいてたのか」
「いえ、まったく。ただ店を出たとき、遠くのほうに走っていく中学生らしき人が見えたので、あなたじゃなければいいなと思っていただけです」
先輩は再び背を向けた。
「気休めにもならないとは思いますが、あの日は私たち、偶然会ったんです。休日に会う約束をしていたわけじゃありません」
「……そうかよ」
また石が飛ぶ。
「でも思ったんです。私が外にいて、先生とあなたが2人で楽しそうにしていたら、どれほど胸を抉られるか。ムカつくし、悔しいし、悲しい……めちゃくちゃに壊してやりたくなる」
「……お前でもか」
「ええ。……きっと先生もです」
潮の香りがする。一際強く打ち寄せた波が、また引いていく。
「それはそうと、私香水を買ったんです」
「はあ?」
先輩はきっと私が突拍子もなく話をそらしたと感じただろう。だが私は構わずバッグを漁って香水を取り出した。
「これ何の匂いかわかりますか?」
「んなもん知るわけ」
シュッ
私は先輩に向かって一吹きした。
「うぁっ、お前なにすんっ、」
霧状になった雫が先輩に降りかかった。
「……ヘリオトロープ?」
「正解です」
「なんで」
何を隠そうヘリオトロープは、いつも颯人先輩から香ってくる匂いなのだ。生乾き臭を誤魔化すために使っているらしいと、他の先輩から聞いた。
「まさか俺のファンになったなんて気色悪いこと言わねぇよな」
「違いますよ。いえ、先輩のことは尊敬していますが。これは先生のために買ったものです」
「先生の?」
「はい。中学に上がる直前、先生が言ったんです。好きな匂いはヘリオトロープ、知り合いがつけていて好きになったと」
「それって」
「私もあなたに会って初めて気づきました。先生が好きになったのは、この人の匂いなんだって」
先輩の頬が薄く染まった気がした。
「これは事実を知る前に買ったものですが……知ってしまった以上、私には使えませんね」
私が放った香水瓶を、先輩は片手でキャッチした。さすがの運動神経だ。
「では、帰ります。お疲れ様でした」
「お、おい!」
私は先輩の声を無視して進んだ。普通なら不敬な態度だ。でも今は許してほしい。この歪んだ顔を見られたくない。
負けませんよ、先輩。
いつか先生に、私のほうがいい匂いだと言わせてみせますから。
右手の指先に残ったヘリオトロープが、私の挑戦を笑ったような気がした。
テーマ「香水」
「君は雲隠を知っていますか?」
古文の話の最中、先生がした質問に私は首を傾げた。
「くもがくれ? 天気の種類か何かですか?」
「ふふ、違います。源氏物語の巻名のひとつですよ」
「源氏物語……紫式部でしたっけ」
「そうです」
突然なぜ天気の話なのかと思ったが、違ったようだ。
先生の学生時代、いちばん好きな科目は古典だったとか。現代にあっても色褪せない言葉の美しさや、描かれている当時の情緒溢れる景色に惹かれるらしい。私も同じだ。
「栄華を極めた光源氏ですが、雲隠の前巻まででその翳りを描かれています。そして雲隠で、出家し亡くなるまでを表現……しているのではないかと考えられます」
「? ずいぶん曖昧な言い方ですね」
「ええ。なにせこの巻、本文がないのです」
「え!?」
私は驚いて聞き返した。
「それは、焼けたりして残っていないということですか?」
「そういう説もあります。ただ私が好きなのは、紫式部があえて白紙にしたという説です」
「あえて……!」
「はい。地位のために最愛の人を傷つけ亡くしてしまった光源氏は、悲しみのこもった詩を詠む。そして雲隠をはさんで、次の巻ではすでに亡くなっています」
「へぇ……」
「光源氏の生き様を描く超大作、源氏物語。だがその死に様をあえて言葉にしないことで、読者に無限の可能性を提示している。まさに文章さえも雲隠れさせた、そう考えるとエモくないですか?」
「はい、私もそのほうが好きです!」
「君なら共感してくれると思っていました」
先生が嬉しそうに笑うので、私まで嬉しくなる。
古典を語る先生は、いつにも増して知的で美しい。
そんな先生に見惚れていると、視線に気づいた先生は私の目を見て微笑んだ。
「?」
その微笑みの意味を知りたくて首を傾けてみても、先生は珍しく何も言わない。いつもなら私の気持ちを汲んでくれるのに。
私がなす術なく見つめ返していると、ふと先生の指が私の頬に触れた。ドクリ。心臓が押し込まれるような感覚。
先生の指は頬を滑って行き、顎の下で止まった。一瞬顎を掴まれた気がしたが、そのままふわりと離れていった。
ああ、と思った。
先生には、言いたいけど言えないことがあるのだな。
言ってはいけないが、どうしても今伝えたいことが。
ならば私は、その気持ちを汲み取ろう。
離れていった先生の手に、自分の手を重ねる。そして満面の笑顔を、先生だけにあげる。
これが今の私にできる、最大限の愛情表現。先生は私の欲しがるものをくれた。だから私も、先生の欲しいものを。
テーマ「言葉はいらない、ただ…」
日曜日。なんとなく出かけたい気分になって、カフェにでも行こうと腰を上げた。
普段からたまに利用しているカフェは、人が多すぎず少なすぎずで、何かに集中するのに最適な空間だ。本棚に置いてある本は自由に手にとって読むことができる。
私は紅茶を注文して、本棚を物色しようと立ち上がった。
カランカラン
目の前で扉が開く。入ってきたのは、私のよく知る人物。煌時くんだ。
「「あっ」」
お互いに驚きの声を上げた。
「先生! いらしてたんですね!」
「君もね。ひとりですか?」
彼の周りに人の影はない。
「はい。急に思い立って出てきたので。先生こそひとりですか?」
「ええ、私も似たようなもので。よかったらご一緒しますか?」
「はい!!」
煌時くんは心底嬉しそうに頷いた。
彼が学校の課題をこなす間、私は本を読んでいた。時々様子を覗き見ていたことは内緒だ。彼は気づかず集中していた。
しばらくして彼が問題集をたたみ始めたので課題が終わったのかと思ったが、今度は違う冊子を取り出した。中学生は大変だ。
お腹が空き始めて、そろそろお昼だと知った。外を見ると生憎の雨模様。折りたたみ傘を持ってきてよかった。
「先生」
「おや、終わりましたか」
「はい。お待たせしました!」
ニコニコの笑顔を見せる彼の手には、先日私があげた日記帳が握られていた。
「それ、使ってくれてるんですね」
「もちろんです! 今日のことも書きました」
彼は何の躊躇いもなく今日のページを開いて見せた。
「おっと、見てもいいんですか?」
「他の人には見せませんけど、先生は特別ですから」
まったくこの子は……
お言葉に甘えて文章を読むと、なるほどカフェで偶然会った経緯と嬉しい気持ちがしたためられている。
「ふふ、私も嬉しいですよ」
「えへへ」
愛らしいはにかみ顔で頬を染める彼。
そういえば、彼は外の状況に気づいているのだろうか。
「煌時くん、傘は持ってきましたか?」
「傘?」
窓の外に目を向けた彼は、ポツポツと降り出した雨に苦い顔をした。
「うぁ〜、持ってきてないです」
やはり。通り雨ではなさそうだし、ひとりで帰してはせっかく終わらせた課題がグショグショになってしまうかもしれない。
「止みそうにないですし、送っていきますよ」
「えっ、いいんですか」
「もちろんです。風邪を引かせるわけにはいきませんからね。ただし、傘は1本ですよ」
「やった! 相合傘だ♡」
子どもらしく手を振って喜ぶ教え子。こういった姿を見ると少々罪悪感を感じるが、離れようとは思えない自分は狡い人間なのだろう。
2人で店を出ると、予想通り本降りになっていた。小さい傘を彼のほうに傾けてゆっくりと歩く。
遠くのほうで傘をささずに全力疾走している少年がいたが、間もなく見えなくなった。
「せんせぇ」
彼の甘い声に目線を下げる。
「どうかしましたか?」
「……いえ、呼んだだけです」
そのどこか寂しそうな横顔を見て、何とも言えない気持ちになる。それを払拭すべく、頼みごとをすることにした。
「煌時くん。よければ傘を支えるのを手伝ってくれませんか。風が出てきたので」
一瞬不思議そうな顔をした彼は、私の意図に気づいて照れ笑いを浮かべた。
重なった手は温かく、濡れた肩など気にもならなかった。
テーマ「突然の君の訪問。」