真愛つむり

Open App

「おらそこ! もっと気合い入れてやれや!!」

普段は穏やかな中学校の廊下に似つかわしくない怒号が響く。

水泳部の1、2年生が1列に並んで腹筋を鍛えている様子を、3年の先輩が監視する構図だ。

怒鳴った先輩に指された方向にいた1年生たちはみなビクリとしてスピードを上げた。私はそのことに申し訳なさを感じてしまう。なぜならあの先輩が怒っているのは、100%私だからだ。

今週に入ってから、颯人先輩の私に対する態度がいっそう厳しさを増した。原因が先生を巡る私と彼の因縁であることは明らかだが、突然ヒートアップした理由ははっきりしていない。

限界ギリギリの筋トレを続けていた私は、ついに「もう無理」というラインに達して寝そべった。先輩たちが終了の合図を出す前だ。自分でも情けないと思うが、まだ未熟な体なので致し方ない部分もあるだろう。

しかし、颯人先輩はそうは思わなかったらしい。ずんずんと私のほうに向かってきて、私の腹を踏んづけた。

「ゔっ!?」

予想外のムーブに思わず大声で呻く。周りもびっくりして我々に注目した。3年の先輩たちが慌てて颯人先輩を私から引き離す。

「おい、やりすぎだぞ颯人!」

「……」

先輩は私を一瞥すると、何も言わないままその場を後にした。

「おい、どこ行くんだよ颯人!」

先輩のひとりが追いかけていった。

「岡野くん、大丈夫?」

残った先輩と同級生たちが心配して声をかけてくれる。

「保健室行く?」

「あ、いえ、大丈夫です。そんな強くなかったし」

「そう? でも筋トレはさすがにキツイっしょ? あっちで休んどきな」

「ありがとうございます」

私は立ち上がって教室の中に移動した。適当な椅子に腰掛けて体を休める。

みんなは筋トレを再開したが、その日颯人先輩は結局戻って来なかった。


「颯人さんて、なんかさぁ」

「ねー。尊敬してたのになぁ」

帰り道、そんな噂話が耳に入った。彼を狂わせているのは私だと、まさか言うわけにもいくまい。

心苦しさを抱えたまま校門までの道のりを歩いていると、途中で出ていった颯人先輩を追いかけていった人が走ってきて、私を引き止めた。

「岡野、悪いけどちょっと来てくれないか?」

「なんですか?」

「実は……」

先輩は声を潜めた。

「颯人から事情は聞いた。でも今回のは完全にあいつが悪い。だから謝らせるよ」

そうか、先輩、話したのか。

「……先輩、できれば颯人先輩と2人で話したいのですが」

「え、大丈夫? また喧嘩にならないか?」

「大丈夫です。颯人先輩が悪い人じゃないの、先輩のほうがよく知ってるでしょう」

「それはまぁ。じゃあ、俺は帰るけど……気をつけて行けよ」

お礼を言って、先輩と別れる。颯人先輩は校舎裏にいるらしい。あの海辺だ。

私は初めて先輩に話しかけられたあの日を思い出しながら校舎裏へ向かった。


「颯人先輩」

海に向かって腰掛けている颯人先輩は、しかし海の景色など目に入らないのだろう、俯いていた。私が声をかけても、その姿勢を崩さない。

「あの、」

「さっきは悪かった」

私の言葉を遮るように謝罪の言葉を吐き出す先輩。絞り出すようなその声は、暴力に対して反省はしているものの、やはりどこか苦しげだ。

「怪我は」

「ないです。怒ってもいません。本気で蹴ったわけじゃないの、よくわかってますから」

「フン……お前は相変わらずだな」

先輩は私に背を向けたまま、持っていた石を投げた。トプン、と独特な音がして、波に吸い込まれていく。

「お前のそういうとこが、先生は好きなのかな」

私は言葉に詰まった。

「先生はお前のような、純粋で正直な優しい人間が好きなんだよな。顔も良いし」

「……私は、そんなできた人間では」

「謙遜はいい。俺とは全然違う。歳下に嫉妬して、暴力を振るうような情けない人間とは、雲泥の差がある」

「……そうでしょうか」

私は筋トレを休んでいる間に考えたことを伝えようと口を開いた。

「もしも逆の立場だったら、私も颯人先輩と同じことしたかも」

先輩が振り返る。何を言ってるんだ、という顔だ。私は構わず続ける。

「見てたんですよね、私と先生がカフェにいたところ」

「……気づいてたのか」

「いえ、まったく。ただ店を出たとき、遠くのほうに走っていく中学生らしき人が見えたので、あなたじゃなければいいなと思っていただけです」

先輩は再び背を向けた。

「気休めにもならないとは思いますが、あの日は私たち、偶然会ったんです。休日に会う約束をしていたわけじゃありません」

「……そうかよ」

また石が飛ぶ。

「でも思ったんです。私が外にいて、先生とあなたが2人で楽しそうにしていたら、どれほど胸を抉られるか。ムカつくし、悔しいし、悲しい……めちゃくちゃに壊してやりたくなる」

「……お前でもか」

「ええ。……きっと先生もです」

潮の香りがする。一際強く打ち寄せた波が、また引いていく。

「それはそうと、私香水を買ったんです」

「はあ?」

先輩はきっと私が突拍子もなく話をそらしたと感じただろう。だが私は構わずバッグを漁って香水を取り出した。

「これ何の匂いかわかりますか?」

「んなもん知るわけ」

シュッ

私は先輩に向かって一吹きした。

「うぁっ、お前なにすんっ、」

霧状になった雫が先輩に降りかかった。

「……ヘリオトロープ?」

「正解です」

「なんで」

何を隠そうヘリオトロープは、いつも颯人先輩から香ってくる匂いなのだ。生乾き臭を誤魔化すために使っているらしいと、他の先輩から聞いた。

「まさか俺のファンになったなんて気色悪いこと言わねぇよな」

「違いますよ。いえ、先輩のことは尊敬していますが。これは先生のために買ったものです」

「先生の?」

「はい。中学に上がる直前、先生が言ったんです。好きな匂いはヘリオトロープ、知り合いがつけていて好きになったと」

「それって」

「私もあなたに会って初めて気づきました。先生が好きになったのは、この人の匂いなんだって」

先輩の頬が薄く染まった気がした。

「これは事実を知る前に買ったものですが……知ってしまった以上、私には使えませんね」

私が放った香水瓶を、先輩は片手でキャッチした。さすがの運動神経だ。

「では、帰ります。お疲れ様でした」

「お、おい!」

私は先輩の声を無視して進んだ。普通なら不敬な態度だ。でも今は許してほしい。この歪んだ顔を見られたくない。

負けませんよ、先輩。

いつか先生に、私のほうがいい匂いだと言わせてみせますから。

右手の指先に残ったヘリオトロープが、私の挑戦を笑ったような気がした。


テーマ「香水」

8/30/2024, 1:10:34 PM