「君は雲隠を知っていますか?」
古文の話の最中、先生がした質問に私は首を傾げた。
「くもがくれ? 天気の種類か何かですか?」
「ふふ、違います。源氏物語の巻名のひとつですよ」
「源氏物語……紫式部でしたっけ」
「そうです」
突然なぜ天気の話なのかと思ったが、違ったようだ。
先生の学生時代、いちばん好きな科目は古典だったとか。現代にあっても色褪せない言葉の美しさや、描かれている当時の情緒溢れる景色に惹かれるらしい。私も同じだ。
「栄華を極めた光源氏ですが、雲隠の前巻まででその翳りを描かれています。そして雲隠で、出家し亡くなるまでを表現……しているのではないかと考えられます」
「? ずいぶん曖昧な言い方ですね」
「ええ。なにせこの巻、本文がないのです」
「え!?」
私は驚いて聞き返した。
「それは、焼けたりして残っていないということですか?」
「そういう説もあります。ただ私が好きなのは、紫式部があえて白紙にしたという説です」
「あえて……!」
「はい。地位のために最愛の人を傷つけ亡くしてしまった光源氏は、悲しみのこもった詩を詠む。そして雲隠をはさんで、次の巻ではすでに亡くなっています」
「へぇ……」
「光源氏の生き様を描く超大作、源氏物語。だがその死に様をあえて言葉にしないことで、読者に無限の可能性を提示している。まさに文章さえも雲隠れさせた、そう考えるとエモくないですか?」
「はい、私もそのほうが好きです!」
「君なら共感してくれると思っていました」
先生が嬉しそうに笑うので、私まで嬉しくなる。
古典を語る先生は、いつにも増して知的で美しい。
そんな先生に見惚れていると、視線に気づいた先生は私の目を見て微笑んだ。
「?」
その微笑みの意味を知りたくて首を傾けてみても、先生は珍しく何も言わない。いつもなら私の気持ちを汲んでくれるのに。
私がなす術なく見つめ返していると、ふと先生の指が私の頬に触れた。ドクリ。心臓が押し込まれるような感覚。
先生の指は頬を滑って行き、顎の下で止まった。一瞬顎を掴まれた気がしたが、そのままふわりと離れていった。
ああ、と思った。
先生には、言いたいけど言えないことがあるのだな。
言ってはいけないが、どうしても今伝えたいことが。
ならば私は、その気持ちを汲み取ろう。
離れていった先生の手に、自分の手を重ねる。そして満面の笑顔を、先生だけにあげる。
これが今の私にできる、最大限の愛情表現。先生は私の欲しがるものをくれた。だから私も、先生の欲しいものを。
テーマ「言葉はいらない、ただ…」
8/30/2024, 5:04:15 AM