『自転車に乗って』
踏んだり蹴ったりな日というのは定期的に来るものだ。今日の僕は特に最悪だった。
夏の夕暮れの中、目的地もなく自転車を漕ぎ続ける。今日みたいな日はすぐに家に帰るのもなんとなく嫌で、何処を目指すでもなく自転車でぶらぶらとしていたのだ。無心になって自転車を漕いでいても、今日の学校での出来事がつい脳裏に甦ってきてつくづく自分に嫌気がさす。
気が付くと町のはずれまでやってきていた。目の前には大きな坂がある。一瞬「引き返そうか」とも考えるが、何故だかそれをしたら負けな気がして、僕はこの坂に挑むことにした。
緩やかな坂ではあるものの、座ったままで漕ぐには限界があって、やむを得ず立ち漕ぎに切り替える。足に入れる力はどんどん強くなり、汗が頬を撫でる。それでも僕は漕ぐのを止めなかった。あと残り数メートル。僕は最後の力を振り絞ってペダルを踏み込んだ。
それまで視界を覆っていたコンクリートの坂は突然終わり、目の前にオレンジ色に染まった海が広がる。息をのむ程の絶景だが、生憎息切れで思うように息が吸えない。はあはあと情けない呼吸を繰り返しながら、僕は海を見る。小さな港で沢山の漁船が波に揺られている姿を見て、僕は自分という存在がどれほど小さいのかを改めて感じた。すると先程まで悩んでいた全てが嘘のように馬鹿げて見える。僕は思わず笑ってしまった。
自転車に乗って、放課後の小さな一人旅。僕は海の大きさを知った。
『君の奏でる音楽』
今まで吹奏楽に費やしてきた長い長い時間を、たった十二分間で表現する。それが吹奏楽コンクールだ。恐らく、全国の吹奏楽部員はこの十二分を短いと感じたことがあるのではないだろうか。僕は今まさにそう感じている。
今日はコンクールの県大会本番。三分程度の「課題曲」は大きな失敗もなく終わり、次は各団体が自分たちの持ち味を考慮して選ぶ「自由曲」だ。僕たち○○吹奏楽部の武器、それはなんといってもソプラノサックスの彼だ。彼は音大志望でプロを目指している未来の音楽家であり、僕らのリーダー的存在である。
思えば僕らが県大会まで進むことが出来たのは彼のお陰だと言っても過言ではない。彼はいつだって一人一人の苦手を分析し、適切な練習内容を考えてここまで一緒に頑張ってくれた。彼と共に吹部人生最後のコンクールに臨めることがとても誇らしい。
トランペット、トロンボーンのファンファーレで自由曲が始まった。その華々しさを受け継いだクラリネットの繊細なメロディーがホールに響き、スネアは軽快なリズムを刻む。と、ここで全体が急に静かになり、場面の雰囲気が一変する。低音楽器とアルトサックスが不気味な不協和音を重ねてゆく中でいよいよソプラノサックスのソロだ。
彼が大きく息を吸い、そのままそれを音にしてゆく。最初は周囲に溶け込むような細い音だが、徐々に存在感を増してゆき、ソプラノサックスが彼という人間の色をホール全体に響かせる。最早、誰一人として顧問の指揮など見ていない。吹いている僕らも、観客も、審査員も、ここにいる全ての人は彼の音を追っていた。繊細で美しく、何処か寂しさも感じさせる彼の音色。練習で何度も聴いたソロだが、この本番という環境で、彼の音楽はまた更なる高みへと進化する。
演奏中だというのに、僕は自分の涙腺が緩んでいくのを感じた。慌てて自分の楽譜に集中する。曲もいよいよ終盤に差し掛かっていた。各々の音が勢いを増し、十人十色な音色が生み出されるが、それでも僕らの音は確実に一ヵ所に集まっていく。彼のソプラノサックスが今、全ての音を受け止めて僕らを繋いでいた。
最期のフェルマータ(程よく伸ばすという意味の記号)が顧問の指揮と共に収められた。胸が苦しい。この苦しさはきっと、今僕の心の中にある色々な感情がぐちゃぐちゃに混ざって生まれたものだ。この感情は、僕と、彼と、皆が作り出した音楽に似ていた。
『麦わら帽子』
数年振りに幼なじみの家に来た。
昔は毎日遊ぶ仲だったのに、最近では学校ですれ違っても全く話さないようになってしまった。いつからこうなったのかは良く覚えている。確か小6の夏だ。それまではいつも友達とやんちゃしている快活な少年だった彼だが、小6の夏休みで別人のように変わってしまったのだ。人との間に壁を作るようになり、中学生になった今では、最早彼を友達だと認識しているのは私くらいだろう。小6の夏に何があったのかは私も知らない。当時、うちのお母さんは「思春期に突入したんでしょ」と言っていたが、恐らくそんなのではない。勿論、本人に何があったのかは訊けていないが。それは触れてはいけないことで、彼にその話をしたら二度と元の関係には戻れなくなる、当時の私にはそんな気がしたのだ。
今日久しぶりに彼の家に来たのは、家族が皆旅行に行っている私のために、彼のお母さんが夜ご飯を作ってくれることになったからだ。受験生だからって家族旅行に連れていってもらえないのには納得がいっていなかったのだが、彼と話す絶好のチャンスが巡って来たことには密かに喜びを感じている。
「ご飯出来るまでもう少し時間かかるから、それまで二人で勉強しとけば」という彼のお母さんのファインプレーによって、私は今、彼の自室で彼と二人きりだ。受験生とはいえまだ八月。集中力がそんなに続くわけもなく、私は部屋の中で話題になりそうなものを無遠慮に探し始めた。白い壁、木製の勉強机、無地のベッド。一見何の変哲もない男子中学生の部屋だが、私はそこに一つだけ気になる物を見付けた。
「ねえ、この麦わら帽子って女物だよね。どうしたのこれ」と私が訊くと、彼は少しだけ迷った様子を見せたが、ゆっくり口を開いて短く答えた。
「…俺の大切な人の物なんだ」
その返答に私は驚いた。幼なじみの私が知らないような、彼にとって大切な女性とはいったい誰なのだろう。見当もつかない。何しろ、今の彼には親しい友人すらいないのだから。私が彼について知らないのはあの夏のことだけのはずなのに、と思ったところで全てが繋がる。
「もしかして、小6の夏休みに関係あったりする?」
彼は一瞬驚いた顔でこちらを見て、やがて静かに頷いた。私は私で、彼のその表情があまりにも哀しいものであることに驚いた。この麦わら帽子の持ち主は今何処にいて、何をしているのだろう。色々な想像が浮かんでは消えてゆくが、敢えてそれを口に出すことはしない。今はただ、その哀しげな様子をなんとかしてあげたいと思う。けれどきっとそれは私には出来ないことだ、というのも頭の何処かではっきり分かっていた。きっとその胸の傷は、この麦わら帽子の持ち主にしか癒せない、そんな気がしてしまった。だから私はそれ以上何も言えなかった。
開いた窓から聞こえてくる蝉の声が、部屋に夏を響かせていた。
『終点』
目を覚ますと窓の外は真っ暗な田舎の風景で、車内アナウンスが私の知らない駅名を終点だと告げている。どうやら、いつの間にか降りるべき駅を寝過ごして終点まで来てしまったらしい。
「次は終点、○○、○○です。右側のドアが開きます。お降りの際は足元にご注意下さい。」
アナウンスが流れる静かな車内には私の他にもう一人だけ乗客がいた。私と同じくらいの年齢だろうか、白と黒のシンプルな服に身を包んだ青年が眠っている。
たった二人、私と彼を乗せた電車は次第にスピードを落とし、やがて古びた無人駅に止まった。ホーム側のドアが開いて、冷房が効いていた車内に生温い夜の風が入ってくる。ドアのすぐ横に座っていた彼は急に周囲が夏の空気に包まれてびっくりしたのか、ゆっくりと目を擦り、自分が知らない駅に着いていることに気付いて驚いたという表情を浮かべている。彼のその表情がまるで私の気持ちを代弁しているかのようで、思わず笑ってしまった。
「お兄さんも降りる駅寝過ごしちゃったんですか」と私が笑いながら尋ねると
「…みたいですね」と彼も苦笑しながら答える。取り敢えず二人で電車から降りて次の折り返し電車の時間を確認してみると、なんと今乗ってきた電車が終電だったらしい。最悪だ、と思っていたら、それが顔に出ていたのだろう、今度は彼が私を見て笑い出した。笑っている彼と目が合って私まで可笑しくなってきて、私も笑う。「夏の奇跡」と言うにはちんけすぎる出逢いかもしれないけど、この何もない駅で初対面の彼と笑い合っているのがなんだかとても不思議で、それでいてとても心地良かった。
真っ暗な夏の夜、私たち二人の笑い声はいつまでもこの片田舎の町に響き渡っていった。
『上手くいかなくたっていい』
今日も僕はピアノとにらめっこしている。調子が良い日はどんどん楽譜が埋まっていくのだが、今日みたいになかなかアイデアが思い浮かばないこともある。今日はもう朝からずっと、書いては消し、書いては消しを繰り返している。
Gコードが虚しく響く薄暗い部屋に、ドアの軋む音と共に君が入ってきた。手にはコーヒーとサンドイッチの乗ったお盆を持っている。
「お疲れ様。曲作りは順調?」いつも通りの優しい声で訊いてくる君に対して
「全然ダメだ。何も浮かんで来ない」と素っ気なく答えてしまう。こんな冷たい返答をしても君を困らせるだけだと分かっているのに、つくづく自分が嫌になる。少しの沈黙の後、君は口を開いた。
「私はね、作曲をしているときの貴方が大好きだよ。自分の中にある物を一生懸命かたちにしようと頑張っている貴方はとてもかっこいい」
だからね、と君は僕の目を見て続ける。
「上手くいかなくたっていいんだよ。貴方が貴方でいてくれるだけで私は幸せだよ」
君のその一言で、僕の中にはもう新たな音楽が生まれたのだった。ひとりで悩み続けても浮かばないメロディーだって、君が傍にいてくれれば僕は世界一美しいものを生み出せる。そしてきっとこれからも、僕は君のその優しさを音にしていくのだろう。
君が僕のために作ってくれたコーヒーが、薄暗い部屋の中を優しい香りで包んでいった。