小説家X

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『上手くいかなくたっていい』

 今日も僕はピアノとにらめっこしている。調子が良い日はどんどん楽譜が埋まっていくのだが、今日みたいになかなかアイデアが思い浮かばないこともある。今日はもう朝からずっと、書いては消し、書いては消しを繰り返している。
 Gコードが虚しく響く薄暗い部屋に、ドアの軋む音と共に君が入ってきた。手にはコーヒーとサンドイッチの乗ったお盆を持っている。
「お疲れ様。曲作りは順調?」いつも通りの優しい声で訊いてくる君に対して
「全然ダメだ。何も浮かんで来ない」と素っ気なく答えてしまう。こんな冷たい返答をしても君を困らせるだけだと分かっているのに、つくづく自分が嫌になる。少しの沈黙の後、君は口を開いた。
「私はね、作曲をしているときの貴方が大好きだよ。自分の中にある物を一生懸命かたちにしようと頑張っている貴方はとてもかっこいい」
 だからね、と君は僕の目を見て続ける。
「上手くいかなくたっていいんだよ。貴方が貴方でいてくれるだけで私は幸せだよ」
 君のその一言で、僕の中にはもう新たな音楽が生まれたのだった。ひとりで悩み続けても浮かばないメロディーだって、君が傍にいてくれれば僕は世界一美しいものを生み出せる。そしてきっとこれからも、僕は君のその優しさを音にしていくのだろう。
 君が僕のために作ってくれたコーヒーが、薄暗い部屋の中を優しい香りで包んでいった。

8/9/2023, 1:53:10 PM