小説家X

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『麦わら帽子』


 数年振りに幼なじみの家に来た。

 昔は毎日遊ぶ仲だったのに、最近では学校ですれ違っても全く話さないようになってしまった。いつからこうなったのかは良く覚えている。確か小6の夏だ。それまではいつも友達とやんちゃしている快活な少年だった彼だが、小6の夏休みで別人のように変わってしまったのだ。人との間に壁を作るようになり、中学生になった今では、最早彼を友達だと認識しているのは私くらいだろう。小6の夏に何があったのかは私も知らない。当時、うちのお母さんは「思春期に突入したんでしょ」と言っていたが、恐らくそんなのではない。勿論、本人に何があったのかは訊けていないが。それは触れてはいけないことで、彼にその話をしたら二度と元の関係には戻れなくなる、当時の私にはそんな気がしたのだ。

 今日久しぶりに彼の家に来たのは、家族が皆旅行に行っている私のために、彼のお母さんが夜ご飯を作ってくれることになったからだ。受験生だからって家族旅行に連れていってもらえないのには納得がいっていなかったのだが、彼と話す絶好のチャンスが巡って来たことには密かに喜びを感じている。
「ご飯出来るまでもう少し時間かかるから、それまで二人で勉強しとけば」という彼のお母さんのファインプレーによって、私は今、彼の自室で彼と二人きりだ。受験生とはいえまだ八月。集中力がそんなに続くわけもなく、私は部屋の中で話題になりそうなものを無遠慮に探し始めた。白い壁、木製の勉強机、無地のベッド。一見何の変哲もない男子中学生の部屋だが、私はそこに一つだけ気になる物を見付けた。

「ねえ、この麦わら帽子って女物だよね。どうしたのこれ」と私が訊くと、彼は少しだけ迷った様子を見せたが、ゆっくり口を開いて短く答えた。

「…俺の大切な人の物なんだ」

 その返答に私は驚いた。幼なじみの私が知らないような、彼にとって大切な女性とはいったい誰なのだろう。見当もつかない。何しろ、今の彼には親しい友人すらいないのだから。私が彼について知らないのはあの夏のことだけのはずなのに、と思ったところで全てが繋がる。

「もしかして、小6の夏休みに関係あったりする?」

 彼は一瞬驚いた顔でこちらを見て、やがて静かに頷いた。私は私で、彼のその表情があまりにも哀しいものであることに驚いた。この麦わら帽子の持ち主は今何処にいて、何をしているのだろう。色々な想像が浮かんでは消えてゆくが、敢えてそれを口に出すことはしない。今はただ、その哀しげな様子をなんとかしてあげたいと思う。けれどきっとそれは私には出来ないことだ、というのも頭の何処かではっきり分かっていた。きっとその胸の傷は、この麦わら帽子の持ち主にしか癒せない、そんな気がしてしまった。だから私はそれ以上何も言えなかった。

 開いた窓から聞こえてくる蝉の声が、部屋に夏を響かせていた。

8/11/2023, 1:42:48 PM