桜が咲くたびに、私はあの人を思い出す。
薄い花びらが散る光景は、どうしてこんなにも昔の痛みを連れてくるんだろう。
受験に失敗して、行きたかった大学には届かなくて、
それでも好きだった人には何も言えないまま、私は静かに就職した。
あの春、何ひとつうまく握りしめられなかった自分が、ずっと胸のどこかに残っている。
あれが正しかったのかなんて、今でもわからない。
ただ、時間だけが過ぎて、桜だけが毎年変わらず咲いては散っていく。
そのたびに、置いてきたはずの感情が、ひっそりと息を吹き返す。
それでも私は、自分を責めるのはもうやめたい。
自分を愛することを、少しずつでも覚えたい。
受け入れることも、手放すことも、愛を持ってできる人になりたい。
だから今日も、私は自分を選ぶ。
あの日叶えられなかった幸せに、少しでも近づくために。
幸せに
私はずっと、毎日「変わるきっかけ」を待っている。
三年前、母が死んだ。
それから父と二人で過ごしているこの家は、どこか味気ない。
朝起きても「おはよう」と言うわけでもない。
挨拶を交わすこともない。
私たちの間には、もともと母という鎖があった。
その鎖があったからこそ、かろうじて家族としてつながっていたのだと思う。
父は以前、私たち二人の前で土下座をして、一家心中をしようと言ったことがある。
母は病んでいた。
そして、残されたのは私だけだった。
今でも思う。
母が私を残して死んでしまったこと。
先に楽になったこと。
それが憎い。
私は母を憎いと思ってしまう。
でも同時に、あの人は弱かったのだとも思う。
たぶん、私よりも。
いや、弱いというより、優しすぎたのだと思う。
人よりも、優しすぎるくらいに。
だからこそ、母は壊れてしまったのだと思う。
こんな家庭で育てば、精神が崩れてしまうのも無理はない。
本当なら、壊れてしまうのは私のほうだったのかもしれない。
それでも私は、変わりたいと思っている。
何気ない、同じことの繰り返しの毎日の中で、
私は「憧れ」というものを夢見ている。
夢。
目標。
目的。
その言葉が、人生の中で何度も頭の中を反芻する。
私は、変わらないものを守るために、変わりたいのだと思う。
もし今の自分が怠けて、ただ惰性の日常を生きていたとしたら、
憧れは遠ざかり、自分に期待することもなくなる。
自分に期待しなくなった先に、いったい何が残るのだろう。
だから私は、この平穏な日常の中で何かを見つけたいと、必死に生きている。
毎日を生きて、
生き抜いてやろうと、必死で頑張っている。
私は、頑張って生きているのだ。
平穏な日常
三年前、彼から電話があった。
「別れたい」――それだけを告げる、短い通話だった。
理由も、余白もなく、通話は途切れた。
私は何も言わなかった。言えなかったのか、言わなかったのか、今でもわからない。ただ、受話器の向こうの沈黙よりも、自分の内側の静けさのほうが、ずっと恐ろしかった。
泣き崩れるでもなく、引き止めるでもなく、どこかでそれを受け入れようとしている自分がいた。その冷静さを、私は今も恨んでいる。
あの日から私は、海の底へ沈んだ。
光の届かない、深い場所に、自分の存在ごと。
それが間違いだとは思わなかった。
人間なんて案外、そんなふうに沈んだまま生きていけるものだ。
あやふやなまま、宙ぶらりんなまま、それでも日々は続く。
言葉にしようとした瞬間、胸の奥が凍る。
自分の人生や存在意義を見つめようとしたとき、これまでの自分が急に薄く、頼りなく思えて、目を逸らしたくなった。
それでも私たちは、どうにか逃げ出し、どこへ向かうのかも知らないまま、ただ前へ進もうとする。
こんな私を見たら、彼は何と言うだろう。
笑うだろうか。呆れるだろうか。怒るだろうか。
――でも、もう確かめることはできない。
彼は、もうこの世にはいないのだから。
現実逃避
終わりを選んだ僕らの続き
……あ、起きた。
気がつくと、真っ白なベッドに寝ていた。
天井も壁も床も、まるで色を失ったみたいに白い。病室のようでもあるし、ホテルの一室のようでもある。でも決定的に違うのは、どこか現実の質感がないことだった。音が吸い込まれていくように静かだ。
視界の端で何かが揺れた。
顔を上げると、二段ベッドの上段から金髪の少年がこちらを覗いていた。白に近い淡い金色の髪が、光を受けてぼんやりと滲んでいる。瞳の色もどこか薄く、感情の輪郭が掴みにくい。
「やっぱり“死後の世界”って存在するんだね。
やっぱり、人ってすぐには死ねないんだ。……この世界って残酷だな」
僕がぽつりとこぼした独り言に、少年はただ静かに僕を見るだけだった。
「絶望的な世界を美しいって証明したいとは、僕も思わないよ。
僕は篠原 樹。よろしく。同室らしいね、君」
「堺 楓です」
名前を言うと、彼はにやりと笑った。右頬に小さなえくぼが浮かぶ。その笑みは軽いのに、なぜか印象に残る。
「堺くんでいい? いい名前だね。僕が改名したい名前ランキング、たぶん2位くらい……死んでからの記憶は?」
「いや。ただ“死ぬことを選んだ”って感覚だけあって、気づいたらこのベッドに寝てた。それが現実。今この瞬間も」
――そうだ。
僕は死んだんだった。
自分で死を選んだ。確かにそうしたはずだ。
なのに、まだ思考している。まだ感情がある。
考えたくなかった。何も感じたくなかった。ただ終わりにしたかっただけなのに。
胸の奥に、まだ重たいものが沈んでいる気がした。
「君、倒れたんだよ」
篠原は、ベッドの上段から身を少し乗り出した。白いシーツがかすかに擦れる音だけが部屋に響く。
「2025年8月1日から9月23日までに死んだ人が、今日ここに集められてるらしい。堺くんはいつ死んだか覚えてる?」
「8月3日です」
「……ほう」
少し間が空く。
「姉が死んだ日なんです。だから、その日に僕も死のうと思って」
言葉にした瞬間、胸の奥がわずかに軋んだ。
「訳ありな感じね」
篠原は目を伏せた。長いまつ毛の影が白い頬に落ちる。
“訳あり”なんて言葉を使うくらいだから、彼にもきっと何かあるんだろう。そう思うと、不思議と少しだけ安心した。
この世界に来ても、孤独だけは持ち越していない気がした。
「ここに集められたとき、集会があってさ。君、途中で入ってきて、そのまま気を失ったんだよ」
彼は続ける。
「どうやら僕たち――現世で死を選んだ人間は、どこかで後悔してるらしい。だからここでは“転生”ってルートが用意されてる。もう一度生まれ直して、やり残したこととか、自分が越えるべき壁を達成してから死んでほしいって話みたい」
淡々とした口調なのに、どこか柔らかかった。
「魂にまだ決着がついてないんだってさ」
部屋の白さが、やけに広く感じられた。
「ちなみに堺くん。生まれ変わるなら?」
「美女がいいです」
篠原はくすっと笑う。
「へえ。理由聞いてもいい?」
「あー……安易ですよ。モテたい。それだけです」
「正直だね。僕も生まれ変わるならイケメンがいいな」
「篠原さん、十分イケメンだと思いますけど」
「刺さる人には刺さる顔なんだけどね。僕はさ、誰から見ても“王道”って顔になりたいんだよ」
彼がまた笑う。
正直、僕から見れば彼は十分整っている。むしろ、誰にでも好かれそうな顔だった。
「選べるんですか?」
「選べないよ。選べるわけないじゃん」
篠原は天井を見上げた。白しかない天井だ。
「この人生だって、選べたことなんてほとんどなかったでしょ? 人生は選択だって言うけど、選べる選択肢自体が限られてる。自由って言うけど、本当は自由じゃない。世界の価値観とか背景の上でしか成立しないからね。……だから、本当は自由なんて存在しないのかもしれない」
そして、ふっと視線を戻す。
「……堺くん。僕ね、早く死にたいんだよ」
その瞬間、部屋の空気が少しだけ冷えた気がした。
「唐突ですね」
「そうだね。でも、ただ死ぬのは面白くない」
篠原は楽しそうに笑う。
その笑顔が、どこか壊れたもののようにも見えた。
「そこで提案なんだけど――勝負しない?」
「勝負?」
「うん。それぞれ転生して、それぞれの人生を生きる。その中で、どっちが先に“生きていた頃の壁”を見つけて、それを乗り越えられるか」
彼は軽く言った。
「もし僕が勝ったら、君に僕を殺してほしい」
「……僕が勝ったら?」
「そのときは僕が、君を殺してあげる」
どう? 名案でしょ、と篠原は笑う。
少しだけ考えて、僕は頷いた。
「話、合いそうだと思いました」
「よかった。堺くんが同室で」
彼は満足そうに笑った。
「――これからよろしくね」
白い部屋の静けさだけが、僕たちの間に残った。
夢を見た。
茜が、僕のことを心から好きでいてくれた――そんな空想の話。
茜は孤独で、独りよがりに生きることをどこかで愛していた。
変わりたいと僕にすがるくせに、いざというときには一歩も踏み出さない。
変わることが怖くて、同じ傷を何度も何度も、自分で抉っていた。
そのことを、僕は知っている。
茜が「自分が嫌いだ」と言うたびに、
僕は、茜のことをもっと好きになった。
変な愛し方しかできなくて、ごめん。
それでも、どこにも行かないでほしい。
隣にいてくれるだけでいい。
茜の席の隣は、いつも僕でありたかった。
――そうだ。
たぶん、そんな夢を見ていたんだ。
こんな夢を見た