勇気を出そう。
いつも行っている修理屋さんの女性が可愛くて、密かに想いを寄せているんだ。
くるくる変わる表情もいいし、実はシゴデキだろと思う気づかいが良くて。領収書にくれる一言も癒されたんだ。
仕事で疲弊した自分には、彼女の笑顔に心を奪われるのに時間はかからなかった。
実は狙っているって人もそれなりにいるのは知っていた。
だからちょっと焦っていたんだ。
両想いになれるなんて思っていないけれど、気持ちを伝えたい。そう思ったから勇気を出そうと思ったんだ。
そう思って彼女が一人になる時を狙っていた。
仕事が一段落して客が落ち着いた時に声をかけようと足を一歩踏み出すと彼女は誰かを見つけて手を振った。
「お待ちしてましたー!!」
声のトーンとその笑顔を見て固まってしまった。
だって見たこと無かったんだよ、そんな笑顔。
胸が痛くなったのと一緒に奈落の底に落ちていくような浮遊感に襲われた。
足の力が抜けて転びそうになったけれど、音が出そうだから何とか踏ん張った。
しばらくすると車が入ってきて彼女の前で止まって、見たことがある青年が降りてきていた。
病院に務めている人で、自分もお世話になったことがある。とてもいい先生。
彼女と話をしている姿を凝視してしまう。そして気がついてしまうんだ、ふたりの距離感の近さに。
確かに自分と彼女は店の人と客の関係だけれど、彼女を見ていたからはっきり分かる。
他の客にも一線を引いているって青年と一緒にいる姿を見て尚更そう思った。
それほど、彼女の笑顔が眩しくて、青年の顔が優しくてふたりにしかないものがそこにある。そう感じてしまったんだ。
言えるわけない。
彼女が困る姿は見たくない。
自分は苦しいけれど、悲しいけれど彼女を苦しめるのはもっと嫌なんだ。
俺は震える足に力を入れて、音を立てないようにゆっくりとこの場を立ち去った。
おわり
四七六、言い出せなかった「」
いつの間にか、彼への気持ちを隠すようにしていた。
それというのも。
私の気持ちが彼にとって、迷惑になってしまうんじゃないかという気持ちがある。
それに彼は誰にでも優しくて、色々な人から好意を向けられていると思ったんだ。
彼を見ている視線に私が持っている〝それ〟と同じだと分かったから。
更に言うなら私たちの周りにいる人たちが、恋愛方面の話を賑やかに盛り上げる人達が多いんだよね。
変なひやかしはしないようにしているけど、私もこっそり恋バナは好きだからね。なおさら気持ちを隠すようになっちゃった。
私の気持ちはいいんだ。
彼と時々会えた時に、笑って話してくれればいいの。
だから、胸がどれほど痛くても、彼への気持ちを奥に奥にしまった。
おわり
四七五、secret love
スマホやタブレットが当たり前のご時世だけれど、これだけは紙媒体でも残したいんだよね。
俺は手を伸ばしてアルバムを取り出してページをめくる。
古いものから、ぱらぱらとめくっていると足元にドンと衝撃がかかってよろけそうになった。
「う?」
声の方に目線を下ろすと愛しい天使が俺の足にしがみついていた。
俺はすぐにアルバムを戻して天使を抱き上げる。
「どうしたー?」
「わー、ごめんなさい!」
愛しい奥さんが天使が近場のものを口に入れないよう、後片付けをしながら追いかけてきていた。
天使は愛らしさ満載で笑っているけれど、これは破壊神してきたな。
「見てくれて、ありがとう。俺が見るね」
「うう……すみません」
天使は曇りなき眼で俺を見つめてくる。
「もう、ママを困らせたらめーだぞ」
「う?」
まだ分からないからね。仕方がない。
この無垢な天使を見ていると俺も彼女も自然と微笑んでしまっていた。
こうやって、またアルバムのページを増やせたらいいな。
おわり
四七四、ページをめくる
ソファでぼんやり天井を見上げていると、恋人が炭酸水を持ってきてくれた。
「もう九月ですねぇ」
「まだ暑いけど夏も終わっちゃうんだねぇ」
彼女から渡された炭酸水を口に含みながら、彼女の言葉に返事をする。
そういえば、今年は暑さで仕事が忙しく、夏休みになーんにもしてないって思い出した。
お医者さんは人が休みの時ほど忙しいんだよね。
夜の皆さんは熱中症に気をつけて欲しいところです。
目だけを彼女に向けると、隣に座った彼女は同じように炭酸水を飲んでいた。
夏の思い出がない訳じゃないんだけど……。
「ねえ。今度有給取って遊びに行かない?」
「え、いいんですか。と言うか、大丈夫ですか?」
ま、まあ時間が取れるか取れないかと言えば俺の方が取れないからね。その心配はあるよね。
「さすがにそろそろ休めるでしょ」
まあ、実際に休み返上している日もあるから、許されるとは思うんだ。
彼女はパァっと花開くような笑顔を俺に向けてくれる。
「やったー、嬉しいです!!」
彼女が俺の腕に手を絡めてぎゅうっと抱きついてくれる。
「遅くなったけれど、残っている夏を探しに行こうか!」
おわり
四七三、夏の忘れ物を探しに
「早いもんだね」
「明日で九月ですよぉ」
「涼しくならないね」
「セミの音は聞こえなくなりましたけどねぇ」
強い熱を持った太陽の光にウンザリした俺と恋人はダレた声で言い合う。
じっとりとした湿度の高い風にも嫌気がさすね。
そんなことしていると、ちょうど音楽が鳴り響いた。
そうか、もうそんな時間か。
決まった時間に鳴り響く音楽。
少し前まではギラギラした太陽が痛いくらいの光を刺してきたのに、今はそうじゃない。
ああ、しっかりと日は傾いているんだな。
「日が短くなったねぇ」
そう、俺がつぶやくと隣に座っていた彼女が立ち上がって俺に手を差し出した。
「帰って夕飯作りましょ!」
おわり
四七二、八月三十一日、午後五時