とある恋人たちの日常。

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 勇気を出そう。
 
 いつも行っている修理屋さんの女性が可愛くて、密かに想いを寄せているんだ。
 
 くるくる変わる表情もいいし、実はシゴデキだろと思う気づかいが良くて。領収書にくれる一言も癒されたんだ。
 仕事で疲弊した自分には、彼女の笑顔に心を奪われるのに時間はかからなかった。
 
 実は狙っているって人もそれなりにいるのは知っていた。
 だからちょっと焦っていたんだ。
 
 両想いになれるなんて思っていないけれど、気持ちを伝えたい。そう思ったから勇気を出そうと思ったんだ。
 
 そう思って彼女が一人になる時を狙っていた。
 
 仕事が一段落して客が落ち着いた時に声をかけようと足を一歩踏み出すと彼女は誰かを見つけて手を振った。
 
「お待ちしてましたー!!」
 
 声のトーンとその笑顔を見て固まってしまった。
 だって見たこと無かったんだよ、そんな笑顔。
 
 胸が痛くなったのと一緒に奈落の底に落ちていくような浮遊感に襲われた。
 
 足の力が抜けて転びそうになったけれど、音が出そうだから何とか踏ん張った。
 
 しばらくすると車が入ってきて彼女の前で止まって、見たことがある青年が降りてきていた。
 
 病院に務めている人で、自分もお世話になったことがある。とてもいい先生。
 
 彼女と話をしている姿を凝視してしまう。そして気がついてしまうんだ、ふたりの距離感の近さに。
 
 確かに自分と彼女は店の人と客の関係だけれど、彼女を見ていたからはっきり分かる。
 
 他の客にも一線を引いているって青年と一緒にいる姿を見て尚更そう思った。
 それほど、彼女の笑顔が眩しくて、青年の顔が優しくてふたりにしかないものがそこにある。そう感じてしまったんだ。
 
 言えるわけない。
 
 彼女が困る姿は見たくない。
 自分は苦しいけれど、悲しいけれど彼女を苦しめるのはもっと嫌なんだ。
 
 俺は震える足に力を入れて、音を立てないようにゆっくりとこの場を立ち去った。
 
 
 
おわり
 
 
 
四七六、言い出せなかった「」

9/4/2025, 2:02:15 PM