これはほんのささいな決め事。
我が家にとっては当たり前の「お約束」。
「ただいまぁ!!」
俺が自宅に帰ると家に響くように大きめな声を出す。
すると、ひょこっと恋人が顔を出して、蕾が一気に花開くような満面の笑みを向けてくれた。
「おかえりなさいー!!」
そして俺の胸に飛びついて、強く抱きついてくれた。もちろん俺も彼女を強く抱きしめた。
この温もりと、彼女の特有の香りが精神的に落ち着いていくのが分かる。
一分ほどたっただろうか。
互いに力を抜いて、視線を合わせると笑顔になる。
ここまでが一緒に暮らすようになってからの「お約束」。
ケンカをすることはないのだけれど、ちょっとだけ険悪になることは時々ある。
でもそういう時でも、帰った後に抱きしめ合うと心が落ち着くんだ。
俺が帰った時だけじゃなくて、彼女が帰った時でも俺が出迎えて彼女の体温を身体で受け止める。
こういうとこを繰り返していると、不安になった時に彼女の体温があれば安心するのだと理解した。
だから、彼女との「お約束」をやめる気はない。
俺が俺としているためにも。
おわり
二九二、約束
雪がやんで、少しだけ気温が暖かくなった。
だからだろうか。
勘違いした木々が甘い花を芽吹かせている。
「えー、この前まで寒かったのに蕾があるー」
恋人と散歩したい。
そう提案して、彼女とのんびり歩いていた。
昨日も気温が高かったから、枝の端々に淡い色の蕾が顔を出している。
「春が近づいているんですねー」
「そうだね」
そんなことを言った翌日の朝。
仕事に行く前、窓を開けて気温差に震え上がる。
夜のうちに雨が降り、気温が下がり、また雪がひらりひらりとちらついてきた。
「気温差ー!!」
昨日見た蕾は大丈夫だろうか。
こんな寒暖差は身体が丈夫な人だって身体を壊すレベルだ。
俺は恋人に振り返り、お湯を沸かし始める。
「どうしました?」
「いや、外の気温が寒くて仕方がないから、温かい飲み物をいれる」
「ありがとうございます」
ふわりと笑顔を向けてくれる彼女の表情。
外の寒さを忘れさせてくれるくらい。
とはいえ、まだしばらく寒暖差には気をつけていかないとね。
おわり
二九一、ひらり
トントントン。
私の心をノックする。
真っ暗なところにドアを叩く音が響いていた。
その音は優しくて心地いいから不思議に思ってしまう。
――
この都市に来てから、色々な人と出会った。
仕事が決まって、この仕事に楽しみを覚えて、人と交流が増えた。
笑顔が増えた……気がする。
うちの会社は、お客さん含めて何故か怪我人が多い。私自身も不幸体質なのか、巻き込まれ事故をもらうことが多くて病院に通っていた。
その度に私の怪我を治してくれていた先生。
困った時に優しくしてくれたのが、忘れられない。
他にも優しくしてくれる人はいるのに、その人だけ少し違うの。
車の修理に持ってきてくれて、少しづつ会話が増えてきた。
好きなものを聞いてみると、同じことが多くて、また差し入れしてくれるって言ってくれた。
『困ったことがあったら言って、力になるよ』
『力になるよ』
病院の先生だから、当たり前のように言う言葉。
……勘違いしちゃいそうだよ。
自分の部屋に帰って、瞳を閉じる。
深呼吸をして、静寂に身を任せると自分の心臓の音を感じた。
その中に暖かいものがふわりと灯る。
トントントン。
私の心をノックする。
心のドアを叩く音が響いていた。
その音は優しくて心地いいの。
ノックするのは誰?
うそ。
本当はあなただって分かってる。
あなたは誰にも優しくて、みんなに笑顔だから、私を見てくれるなんて思っちゃだめだと分かっているの。
でも、あなたが私の心の扉を叩くのを止めてくれない。
おわり
二九〇、誰かしら?
初めて出会った時は、困った患者さんだなって思った。
彼女自身は不幸体質なのか、しょっちゅう怪我をして俺の患者さんになっていた。
バイクが壊れた時、彼女の職場に行った。
「修理してくださーい!」
「はーい、あ!! いらっしゃいませー!」
俺だと気がついた時、声のトーンが一段上がり笑顔が本当に嬉しそうな顔になった。
今思うと、それが種だったのかもしれない。
「俺、水色が好きでさー」
「私もですー!!」
こんな些細なことが水やりになる。
「クリームソーダ、大好きなの〜。新しいのあげるね」
「わ! 嬉しい、私も大好きなんです!」
日を浴びて、芽吹いてくる。
彼女との交流はどんよりした気持ちが、涼やかな風が吹いてくるみたいだったんだ。
請求書に毎回書いてくれる、ささやかな一言。
どんどん彼女への気持ちが芽吹いていくんだ。
気がついちゃダメな気持ちの種が沢山撒かれて、沢山水やりしてもらって、沢山の太陽を浴びて、芽吹いていく。
恋という種が。
おわり
二八九、芽吹きのとき
だいすき。
だいすき。
だいすき。
彼のことが大好きなの。
暖かい温もりが私に触れてくれる。
それが嬉しくて、たまらないの。
私も彼に手を伸ばすと、その手を取って手のひらにキスしてくれた。
初めて彼と肌を重ねた日。
私は一生忘れることはできない。
それほど幸せな時だった。
おわり
二八八、あの日の温もり