「あ……」
ペンを取ろうと手を伸ばしたのに、ぼんやりしていたからか、指からこぼれ落ちた。
落ちていくはずのペンは床に落ちることなく、彼の手に収まっていた。そして、彼は身体を起こして太陽のような笑みを向けてくれる。
「落ちなくて良かった!」
その安堵した声と笑みに、私の胸が高鳴る。
違うと否定していたのに、その笑顔と優しい行動は私の心を捕らえて離さない。
「ありがとうございます」
上手く笑えただろうか。そう思いながら彼からペンを受け取る。
でも、その不安はすぐかき消された。
もう一度眩しいほどの笑顔を見せてくれたから。それと一緒に私の心臓の音もうるさくなる。
小さいことだけれど、そんなことが積み重なって否定できないくらいの気持ちが溢れてた。
好き。
伝える勇気はないけれど。
きっと言葉にできないけれど。
この想いは大切にしたい。
おわり
一九一、落ちていく
最近、ずっと考えていたことがある。それは子供が欲しいと強く思うようになったこと。
時々、子供を預かることがあって、その子が本当に可愛い。その子の面倒を見るのも楽しいし、同じように面倒を見ている恋人の姿が、たまらなく愛おしい。
それと、俺の仕事の危険性。
救急隊として、それなりに危険と隣り合わせだ。実際に怪我をして彼女に心配させたこともある。
そんなことにならないよう訓練もしている。それでも俺自身に何かあった時に彼女に残せるものがない。恋人として一緒に住んでいるけれど、他人と言われたら他人なんだ。
俺は隣でスマホを見ている彼女に視線を送る。それに気がついた彼女は俺を見つめ返した。
「どうしましたか?」
「うーん……」
ほんの少しだけ気のない返事をしてしまう。
彼女とは〝子供が欲しいね〟と言う話もしたことがあるし、先の将来のこともぼんやりと話している。それでも、これを言っていいのか……。やっぱり不安なんだ。
彼女の性格と関係値を思うと、ダメ……とは言わないと思うけれど。
視線だけ彼女に向けたまま言葉に詰まっていると、首を傾げてしっかりと俺を見てくれる。
俺は深呼吸をする。冷たい空気が体内にめぐって頭がすっきりする。そして、しっかりと彼女を見つめた。
「あのさ……」
「はい」
声が震えるし、心臓の音がうるさい。
それでも、伝えなきゃ。
「家族になろうよ」
「え……」
はっきりと驚いた顔をしたと思ったら、頬を赤く染めて微笑んでくれた。
「嬉しい……です……」
目の端に涙を溜めて、俺に抱きついてくれる彼女。それが嬉しくて、俺も抱きしめ返した。
「良かった……」
「え、断ると思ったんですか?」
「や。断らないとは思っているけど、百パーセントなんてないでしょ?」
「なに言っているんですか! 百パーセントですよ!!」
ぷくっと頬を膨らませて、口を尖らせる彼女に心の底から安心して、より強く抱きしめた。
「ありがとね」
「はい、夫婦になりましょ」
おわり
一九〇、夫婦
彼女を気になるようになってから、つい視線で追ってしまう。
他の人と楽しそうに話しているけれど、声をかけたい気持ちが溢れた。
話している間に割り込むのも気が引けるし、迷惑になったら嫌だな。邪魔になるだろうし。
でも、彼女と仕事以外で会えるわけじゃないし……どうしようかな。
どうすればいいか悩んでいると、振り返った彼女と目が合った。俺を見つけて一瞬驚いていたけれど、すぐに柔らかく微笑み、軽く会釈してくれるから胸が高鳴る。だって、その笑顔が可愛いんだもん。
俺は意を決して、彼女に向けて足を進める。
「こんにちは!」
何事も無いように彼女に向かって挨拶をすると、俺に身体を向けて椅子から立ち上がってくれた。
「こんにちは、久しぶりですね!」
眩い程の笑顔に、胸の鼓動が抑えられそうもない。
俺は心の中で自嘲気味に笑ってしまう。
だって、もう逃げられないんだよ。それくらい、俺は君に心を奪われているから。
どうすればいいのかと、悩む必要なんてなかったね。
おわり
一八九、どうすればいいの?
『たくさんの想い出がつまった家だ……』
昨日、家に帰ると恋人がカーテンを見ながら、そう呟いていた。
その言葉は次の日になった今でも、俺の心に残っている。
彼女との想い出は、何もかもが宝物だ。
出会いも、不安になったことも、すれ違いも、それ以上に沢山ある笑いあったことも。全部が幸せな宝物だ。
今日は休みの日で誰もいない。俺はあの時、彼女が触れていたカーテンに手を伸ばす。
〝これからも想い出をたくさん作っていこう〟
そう、彼女に告げた。
俺は嬉しくて、口を開けずに目を細めて笑う。
俺と彼女は少し前から将来の話しをしていた。〝家族になりたい〟という願いを彼女も理解して受け入れてくれている。
部屋全体を見回す。
この家は2LDKで、ふたりで住むには十分だ。でも家族になったら、きっと手狭になることを理解している。だって、家族はふたりから増えていくものなのだ。
「宝物、きっと溢れるよ」
おわり
一八八、宝物
最近、季節の変わり目な上に寒暖差が激しくて、うまく眠れない。
彼女を抱き締めていなかったら、もっと眠れないのだろうな。そう思うと、これでもマシな方なのだからタチ悪い。
今晩も寝れるか不安を覚える中、寝室に行くといつもとは違う香りがする。
なんだろう、木々の中にあまやかで、俺には落ち着く香りだった。
部屋を見渡すとサイドテーブルに、ランプのようなものが置かれていた。これはアロマキャンドル?
俺はそのキャンドルに近づいて、その匂いを嗅ぐと、これが香りの元だと分かる。
「いい香りだなー」
「良かった、苦手な香りじゃないですか?」
後ろからトレーを持った恋人が入ってきた。俺の言葉に安心したようで、ふわりと柔らかく微笑んでくれた。
「はい、どうぞ」
渡されたマグカップの中は透明で……これはお湯かな?
彼女にはそれが聞こえたようで、頷きながら微笑んだ。
「白湯です。眠る前にゆっくり飲んでくださいね」
「……えっと……俺が眠れてないの、気がついてた?」
「そりゃ隣で寝ているんですから」
当然です。
そう言っているように見えた。
「このキャンドルも?」
「はい! デパート行って買ってきちゃいました!」
「ごめんね。高そう……」
「値段なんて良いんです。ちゃんと眠るのが一番です」
彼女は俺の手に自分の手を重ねる。細くて、柔らかい手が心地いい。
「でも俺、君を抱っこしていれば割と安心するんだけど……」
「それじゃ足りたい状態ですよ。今度、マットレスや枕も探してみましょう」
「え、高くない?」
「それでちゃんと眠って、お仕事が安全にできるなら安いものですよ」
穏やかな口調だけれど、真剣な思いが伝わる声だった。
「人の命に関わる仕事をしているんですから、ね?」
俺の手をさすってくれながら、有無を言わせない言葉。
「そして、ちゃんと私のところに帰ってきてください」
ああ、本当に彼女は俺のことをよく分かってる。そう言われてしまうと、俺は大人しく言うことを聞くしかないんだ。
俺は白湯を時間をかけて飲みきると、彼女の肩に頭を軽くのせて、ぼんやりとキャンドルの日を見つめた。ゆらゆらと揺らめく小さな炎を見ていると、理由はないけれど落ち着く。
「眠くなったら、そのまま寝てください」
「ん……」
頭にモヤがかかり、視界がぼんやりとする。この香りは彼女の思いやり。白湯で温められた身体と穏やかに揺れる炎は、俺を心地よい眠りへ誘ってくれた。
おわり
一八七、キャンドル