恋人が風邪をひいてしまった。
少し前に俺が風邪を引いた。その時は彼女が看病してくれたが、風邪はうつらなかった。
時間が経ち、また寒暖の差にやられてしまい気がついたら発熱していた。
「体温計で熱を計るまでもないよ。今日は家でゆっくりしててね」
俺はスマホを取り出し、彼女の職場に電話をかけながら扉から部屋を出ていった。
『はいはーい、どうしたん?』
「あ、すみません。彼女が熱を出しちゃったので、今日は休ませて欲しいんです」
『ああ、了解、了解。知らせてくれて、ありがとね』
「いえ、こっちこそ、ありがとうございます」
『ほななー』
通話が終わって部屋に戻ると、ベッドで俺に向かって手を伸ばし、その瞳から涙を溢れさせた彼女がいた。
「社長に連絡したからね……ってなに!? どうしたの!?」
彼女が片手を伸ばしている姿に気がつくと、血の気が引いた。俺は顔色を変えて床を蹴る。
そして、強く、強く抱き締めた。何かを言うわけではなく、彼女の熱を受け取るように抱き締めた。
「やだ、行かないで……そばにいて……」
普段は元気で笑顔が耐えない彼女。それが、こうやって俺にわがままを言うのは本当に珍しい。自分の意見が無いわけじゃなくて、相手を尊重する子だから。
だからこそ、彼女の言葉に胸を締め付けられた。
彼女の頭を優しく撫でながら、彼女の体重を俺に寄せる。
「そばにいるよ」
「うん……」
彼女の身体をゆっくり倒し、隣に寄り添った。
「ずっとそばにいるからね」
「うん」
熱があるからか、少し息遣いが荒い。それでもどこか安心したように、瞳を閉じた。
彼女が眠ったら、俺も職場に連絡しよう。
今日……なんて言ったけれど、俺はずっとそばにいるよ。
ずっとね。
おわり
一六一、行かないで
調整で救助用のヘリコプターに乗り、上陸すると身体に独特な浮遊感がくる。
視界はビル群。それを抜けるとどこまでも続く青い空が広がった。
「やっぱりこの空が好きだな……」
俺はこの機会を仕事で得ることが出来たが、恋人はそうじゃない。
いつか、お金を貯めるだけ貯めて、ヘリコプターをチャーターして、いつか恋人にこの空を見せたい。
俺の中に新しい目標が出来た。
まだまだ仕事が頑張れそうだ。
おわり
一六〇、どこまでも続く青い空
灼熱のような暑い夏から、気温が下がり金木犀が香るようになった。数日前に比べて頬を掠める風の冷たさは身震いするほどだ。
と言ってももうすぐ十一月。長袖がないことがおかしいと少しの夏物を残して衣替えを始めた。
「あ、このジャケット……」
それは恋人の青年のブラウンのダウンジャケット。彼女にとっては思い出深く、自然と抱きしめてしまった。
「なに、どうしたの? 俺のジャケット抱きしめちゃって」
その様子を見ていた青年は嬉しそうに笑っていた。
彼女は、もう一度青年のダウンジャケットを見つめ、再び抱きしめる。
「だって……このジャケットを着た貴方と沢山の思い出があるんですもん」
色々出かけた。
何よりこのダウンジャケットは青年に似合っていて、ドキドキしたことが何度もある。そういう意味でも大切で、大好きなダウンジャケットなのだ。
思い出に浸る彼女を苦笑いする青年は、彼女からダウンジャケットを剥き取った。
「ちゃんとこの冬も着るよ。まずはクリーニングに出さないとね」
「はい!! 今年も沢山思い出作りましょうね!!」
満面の笑みを青年に向けて、この冬への期待を膨らませた。
おわり
一五九、衣替え
海の中に落ちている感覚に襲われる。こぽこぽと唇や鼻から泡が上がっていく。身体も重くて動かせない。
ただただ、暗い水の中に沈んでいく。
「……さん!!」
強い衝撃と声で、俺は急に現実に引き戻された。涙を目の端にためている恋人が目の前にいて、俺を見るなり力強く抱きついた。
俺も全身から汗が吹き出ていた。息も上がって肩が上下する。
「うなされていました。凄く苦しそうで見ていられなくて……」
その言葉は少しずつ涙声に変化していた。肩越しに彼女の涙が伝わって胸が熱くなる。
俺も彼女を力強く抱きしめた。
最近、精神的に疲弊しているのが分かっていた。身体が重い感覚はあるけれど、目を閉じると深いところで心がざわつく感情が拭えない。
ひとりの時間も嫌だった。不安が背中から襲ってくる感覚に瞳を強く閉じた。自分の身体を抱きしめても収まらない不安にどうしたらいいのか分からなかったのに……。
彼女の涙と体温は俺の心を軽くしてくれる。
眠る前に入っていたボディソープの香りだけじゃない、優しく、柔らかくも甘さのある彼女の香りが鼻をくすぐる。それは心を落ち着かせつつも、身体を熱くする彼女だけの香り。
俺だけにしか効かない官能的なアロマ。
俺は彼女の身体をシーツの海に沈めて、彼女をもう一度強く抱きしめると彼女も俺を抱きしめ返してくれた。
「……ごめん。多分、優しくできない」
「いいです。私もそうして欲しい……」
「声が枯れるまでしちゃうかも」
「それは手加減してください」
自然と口元がほころんだ。彼女も同じように微笑んでくれた。こういう時の彼女の瞳は慈しみの色が強くて……触れていいのか不安を覚える。
それでも、俺は手加減なんてできなかった。
おわり
一五八、声が枯れるまで
俺たちの出会いは……彼女が倒れて救助に向かった時だった。色々な人に囲まれて賑やかで楽しそうだったのを覚えている。
しっかりした人達が多いの中、一際弱くて心許ない感じがあって、まるでロウソクの火みたいに軽い吐息で消えてしまいそうだと感じて、俺も守らなきゃと思っていた。
同じように彼女が怪我をする時、俺が救助に行くことか多かった。本当に偶然なんだけど。
怪我をした彼女には、いつも人がいた。大切にされていたからこそ、心配されて、賑やかで、楽しそうだった。
出会う時はいつも賑やかで、楽しそうで。
痛いと泣きそうな声で小さく叫ぶこともある。けど、心配されると心配ないと笑顔を向ける。
そんな彼女には面倒見てくれる人達が周りにいて、甘やかされているとは思っていたけれど、彼女はそれに甘んじることはなくて……。
彼女がセクハラされた現場に居たこともあったけれど、己の拳でセクハラした男をぶちのめす程になっていた。
まあ、彼女がぶちのめした男が俺の患者だったから、治療は複雑な気持ちだったなんて言えない。
いつも笑顔が多くて、賑やかで、楽しそう。
俺の周りも賑やかではあるけれど、なんだろう。賑やかの種類が違う。お笑い全振りした仲間たちとは違って、穏やかな気持ちになる。そんな賑やかさ。
少しずつ、少しずつ視線を彼女に向けることが増え、彼女に想いを募らせていることにも気がついた。
始まりはいつも賑やかで、楽しそうなところから。
「ただいま帰りましたー!!」
玄関の扉が開き、元気の良い声が響き渡る。廊下に足を向け、彼女の顔が見えると元気いっぱいな笑顔を俺に向けて抱きついてくれる。
「ただいまですー」
「うん、おかえり。お疲れ」
君との始まりはいつも賑やかだ。
おわり
一五七、始まりはいつも