とある恋人たちの日常。

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 海の中に落ちている感覚に襲われる。こぽこぽと唇や鼻から泡が上がっていく。身体も重くて動かせない。
 
 ただただ、暗い水の中に沈んでいく。
 
「……さん!!」
 
 強い衝撃と声で、俺は急に現実に引き戻された。涙を目の端にためている恋人が目の前にいて、俺を見るなり力強く抱きついた。
 
 俺も全身から汗が吹き出ていた。息も上がって肩が上下する。
 
「うなされていました。凄く苦しそうで見ていられなくて……」
 
 その言葉は少しずつ涙声に変化していた。肩越しに彼女の涙が伝わって胸が熱くなる。
 
 俺も彼女を力強く抱きしめた。
 
 最近、精神的に疲弊しているのが分かっていた。身体が重い感覚はあるけれど、目を閉じると深いところで心がざわつく感情が拭えない。
 
 ひとりの時間も嫌だった。不安が背中から襲ってくる感覚に瞳を強く閉じた。自分の身体を抱きしめても収まらない不安にどうしたらいいのか分からなかったのに……。
 
 彼女の涙と体温は俺の心を軽くしてくれる。
 
 眠る前に入っていたボディソープの香りだけじゃない、優しく、柔らかくも甘さのある彼女の香りが鼻をくすぐる。それは心を落ち着かせつつも、身体を熱くする彼女だけの香り。
 
 俺だけにしか効かない官能的なアロマ。
 
 俺は彼女の身体をシーツの海に沈めて、彼女をもう一度強く抱きしめると彼女も俺を抱きしめ返してくれた。
 
「……ごめん。多分、優しくできない」
「いいです。私もそうして欲しい……」
「声が枯れるまでしちゃうかも」
「それは手加減してください」
 
 自然と口元がほころんだ。彼女も同じように微笑んでくれた。こういう時の彼女の瞳は慈しみの色が強くて……触れていいのか不安を覚える。
 
 それでも、俺は手加減なんてできなかった。
 
 
 
おわり
 
 
 
一五八、声が枯れるまで

10/21/2024, 1:02:33 PM