時計の針がてっぺんを過ぎ、さらに時間が進む。夕飯も、お風呂も、寝る支度も完全に済ませてしまったけれど、大好きな彼が帰ってこない。
スマホを覗くと、『ごめん、遅くなる』の一言だけ。スイッとスワイプしてその前に来たメッセージを見ると、昨日の日付で同じメッセージが来ていた。
お仕事……忙しいんだな……。
彼の仕事は人を助ける仕事だ。大きな救助だってあるから、遅くなることはあるにはあるけれど二日連続は珍しい。
玄関の方から鍵が開く音が耳に入った。その瞬間にソファから勢いよく立ち上がり、玄関まで走った。
「ああ、待ってたの? 寝ててよかったのに……」
「会いたいから待ってました。おかえりなさい」
「あ、ごめんね。ただいま」
力無く吐き出される言葉。目はいつもの半分くらいしか開いてないし、目の下にクマも見える。
いつものように抱き締めてくれる、この日課。彼の腕に入る力がない代わりに、体重がいつもよりのしかかった。
「夕飯食べました?」
「軽く……」
「お風呂入ります?」
「さすがに無理。気を抜いたら寝そ……」
頭がガクりと私の肩にぶつかる。結構痛そうな勢いだったけれど、痛いとか、そういう状況じゃないみたい。
……と言うか、おかえりのぎゅーから解放されない……。
「眠いです?」
「眠いと言うか、このままがいい……」
どこまでも気の抜けた声で発せられるのは、離したくないという意思表示だった。
「このままでもいいからベッド行きましょ。私、ずっとそばにいますから!!」
「うん……」
ああ、もう目を開けるのも面倒になってる!!
彼はぐらりとしながら私に体重を預け、ゆっくりと寝室に行き、ベッドに倒れ込んだ。
「あ、服……靴下……!」
「いいよぉ……それよりぎゅーしてぇ……」
「よくないです!!」
急いで靴下を脱がせて、簡単に着替えさせながら、枕に頭を乗せさせる。
「ん、ありがと」
「いえ、むしろお仕事お疲れ様です」
「ちかれた……」
彼に寄り添うように横になると、逃がさないと言わんばかりに、再び強く抱き締められた。
「明日のお仕事は?」
「普通にあるぅ……」
もう目を開けることはなく、小さく唇が動くだけ。抱き締められる腕を脱ぐって、彼の頭をゆっくり撫でると意識が手放された瞬間が伝わった。
明日、私が休みだから、朝ごはんもそうだけれど、送り迎えもしてあげたい。
いつも支えてくれる彼を、私が支えたい。
「本当にお疲れ様です。束の間の休息ですけれど、休んでくださいね」
おわり
一四五、束の間の休息
時々訪れる、恋人が無性に不安になる時。
少し前からそんな傾向はあったから、そろそろ本格的な不安モードが来るんじゃないかなと思っていた。
言葉を発することなく、黙って抱きついてくる。俺が苦しくない程度に気を使いつつも、めいっぱいの力を込めて俺に抱きついてくる。
こうなると彼女が安心するまで、一晩中抱き締めてあげるしかない。
でもね。
この彼女の不安モードは俺にとっても大切なものなんだ。
彼女がこのモードになって抱きついてくるのは、心が不安になるのと同時に、これを治せるのは俺だけと言うこと。言い方は悪いけれど彼女を独占できて、俺だけが治せると言う優越感がある。
俺は彼女を正面から力を込めて抱き締めた。
「大丈夫だよ」
「ん……」
力のない声がして、身体を擦り寄せながら俺を抱きしめる腕に力が込められる。
ホント、君は俺のこと好きだね。
おわり
一四四、力を込めて
過去の写真を探そうとスマホの写真を指でスワイプして流す。
その写真を見つけて頼まれた人に送ったあと、ソファに座って過去の写真をゆっくり見直していた。
この都市に来たばかりの写真から、救急隊に入って家族のような仲間ができた頃の写真。
そしていつからか、色素の薄い女性の写真が増えていった。
あ、こんな写真も撮ったな。
この写真、こっそり貰ったな。
そんなことを思いながら、青年は見つめているとだらしなくずり落ちて座っていた体勢から、ガバッと起き上がる。
それは彼女が青年を見ている写真を数枚見つけたのだ。
彼女と付き合う前、人に呼ばれた結婚式の集合写真。
綺麗にドレスアップしているし、いつもショートカットなのにロングヘアにして髪の毛をアップにしているから、あの時は彼女だと気が付かなかった。
少し距離もあるけれど、ハッキリ青年に視線を送っている彼女の姿に気がついて、耳が熱くなった。
え、これ。みんなが持っている写真じゃない?
気がついた人、絶対いるよね……!?
耳どころか、顔全体が熱くなってくる。
その理由は彼女の表情にあった。
どこか熱を帯びた表情と視線に胸が高鳴ってしまう。
何よりこの表情をさせているのは過去の青年自身だと気がついて、それはそれでモヤッとしてしまった。
「全然気がつかなかった……」
青年自身が彼女を想うより前の写真だったので驚きを隠せなかった。
「いつから俺のこと、好きになってくれたんだろう……」
今、恋人は仕事から戻ってきていない。
彼女が帰ってきたら、写真を見せて質問責めにしようと決める青年だった。
おわり
一四三、過ぎた日を想う
青年はソファで雑誌を見ていると、当たり前のようにある星座占いに目が行った。今回は時事的な占い結果ではなく、相性占いの特集が組まれていて、つい気になった。
「そう言えば、何座だっけ?」
隣で青年に体重を預けてぼんやりとしていた恋人に声をかけると、彼女は身体を起こしながら首を傾げた。
「? 私はおひつじ座です」
「俺はしし座」
ペらりとページをめくり、しし座とおひつじ座の相性を見ていく。彼女も気になったのか、雑誌が見えるような体勢で青年に体重を預けた。
「えっとなになに? エレメントも同じで相性抜群。お互いを尊重し合い良好な関係を築けます。だって!」
その内容にお互いに目を丸くし、同じタイミングで声を出して笑ってしまった。
「正直さ。星座の相性とか関係なくて、俺は君の個人を見て好きになったんだけれど、なんか裏づけられちゃったね」
くすくすと笑いながら彼女も首を縦に振る。
「私も、あなた個人を好きになったのに背中押してもらって凄く嬉しいです!」
青年は雑誌をテーブルに置いて、彼女の腰に腕を回した。
「星座なんで実際関係ないとは思うけれどね。でも色々相性が良いというのは納得しちゃう」
青年はそう告げると、彼女の額に優しくキスを贈った。
おわり
一四二、星座
ラジオをかけていると、懐かしい音楽が流れた。
それは付き合う前に……いや、お互いを意識するきっかけになったダンスパーティーでかかった曲。ラストのチークダンスの時まで壁の花になっていた彼女を、仲の良かった青年が声をかけて踊った思い出の曲だった。
今は恋人同士になって、一緒に暮らしている。
「懐かしいね」
「はい、私も同じように思っていました」
青年はソファから立ち上がり、恋人に向けて手を差し伸べる。
「踊りませんか?」
「場所、狭いですよ?」
「テーブルを退かせば大丈夫だよ」
青年はテーブルを持ち上げて壁に添えて、座っていたソファも端に寄せる。
荷物が少ないから確かに小さく踊れそうだった。
「ね、踊ろ」
今度は彼女の手をしっかり取り、身体を引き寄せる。彼女を逃がす気はなさそうだった。
「はい」
ほんのりと頬を赤らめながら、彼女が青年に手を添えると音楽に合わせて身体を揺らした。
おわり
一四一、踊りませんか?