風呂に入って、髪の毛も乾かして、パジャマに着替えて広いベッドに座りながらそのまま身体を倒した。
恋人と一緒に眠る用に購入したから、かなり広いベッドだ。
「はあ……」
チリッと額に痛みを感じて、少し苛立つ。
瞳を閉じると、本当の意味でのその痛みの原因が脳裏に過ぎった。
ここ数日、仕事のルールで納得できないことがある。それについて俺は少し強気な考えを持っていて、先日腹が立ってモヤモヤしていた。
カチャリ。
しばらくすると、俺の隣に彼女が同じように横になっていた。
「ここで眠ったら、風邪ひいちゃいますよ」
そう言いながら、俺の額から後頭部に向けて優しく撫でる。いつも以上に柔らかい声と、暖かい手が、とても心地好い。
「寝てないよ」
俺は彼女の方に向くように寝返りをうつと、彼女の無でる手も向きを変えてくれた。
そんな状態でも、手をとめずに撫で続ける。
「寝られてますか?」
優しいトーンに聞き逃しそうになったその言葉に驚いて、俺はパチッと目を開けて身体を起こした。
「わっ!!」
「あ、ごめん……って、え!?」
彼女は俺の行動に驚いたようだけれど、その柔らかい雰囲気を変えず首を傾げる。でも、俺は彼女が放った言葉に口が閉じれないでいた。
「眠れてないって……」
「そりゃ気が付きますよ」
気が、付いていたんだ……。
眠れない時は、彼女に背を向けたり、静かに寝室を出たり、起こさないように細心の注意を払っていたのに。
俺が言葉を失っていると、彼女も身体を起こして両手で俺の頬を包み込んでくれた。そして、少しの力で額同士をくっつけた。
「イライラしているのは分かっていたんですけど、私に当たるわけでもないし、触れられたくないのかなって思ったから何も言わないでいたんです」
「うん」
「でも、最近眠れてないみたいだから。眠れないのは良くないから……ごめんなさい」
イライラしているのは確かに隠していた。仕事の感情をプライベートである彼女に見せるのも気が引けるし、彼女の性格的にも凄く心配させてしまうのも分かったから。
でも。
彼女は俺の些細なことでも見逃さずに見守って、必要だと思ったから一歩踏み込んだ。無遠慮に飛び込むのではなく、慎重に。
それが伝わるのは、最後の「ごめんなさい」だ。
どうしようもないほどの気持ちが溢れて、俺は彼女を強く抱き締めた。
「謝らないで。むしろ気を使わせてごめん!」
「ううん。でも、言えなかったんですよね。仕事も守秘義務があると思うし、聞いちゃいけないかなと思ったんですけれど……」
心に申し訳なさが広がる。
言わないことが心配させないことだと思ったのに違うんだ。
彼女は気を使ってくれる人だ。
俺を大切にしてくれる人だ。
俺は彼女を解放して、ベッドの中に入ろうと促した。
「仕事的に言えないことはあるけれど、それでも聞いてくれる?」
彼女は俺の腕に収まりながら、大きくうなづいた。
「聞くことしかできないかもしれませんが、聞かせてください」
俺はぽつりぽつりと話していく。
彼女はその合間に相槌を打ってくれる。
抱きしめる彼女の体温が心地好くて、話終わる頃には意識を手放していた。
おわり
百十、些細なことでも
心身ともに疲れた時に、彼女のいる修理屋にバイクの修理をお願いしに行った。
たまたま彼女がワンオペになっていて、俺一人が客だった。
「疲れたー!!!」
俺は床にダイブしながら悲鳴をあげると、彼女はくすくす笑いながら、工具を持って修理をしてくれる。
出会った頃の彼女は、やることなすこと全ての行動が不安になる動きをするから、心配で仕方がなかった。
でも、仕事で先輩をしている姿は頼りがいがあって驚いた。
その姿を見て感慨深くもなったし、ほんの少し心が温かくなった気がしたんだ。その時は、それがどういうものかは分かっていなかったけれど。
そして―――――
「大丈夫ですか?」
当たり前のように俺を心配する彼女。
「私に何かできること、ありますか?」
手を差しのべてくれる彼女。
「疲れているんですよね!? クリームソーダ持っているので、用意しますね!」
俺の好きなもので労りつつ、気遣ってくれる彼女。
俺の周りには、そんな人は居なかったんだ。
嫌いじゃないけれど、自分の気持ちだけを押し付けて、押し付けて、押し付けて。
俺を振り回すだけ振り回す人達ばかりの中で、俺を気遣って……大切にしてくれる人。
そんな彼女と交流して行くうちに、俺の心に火が灯っていたんだ。
「……好きだよ……」
彼女の耳には届かない程の小さい声で、自然と言葉を紡いでいた。
紡いだ言葉の意味に気がついて、俺の耳は一気に熱くなる。だから咄嗟に顔を腕で隠した。だって絶対に顔も赤くなってる。
「わあっ、顔が真っ赤!! 熱ですか!? 病院まで送りましょうか!?」
そんな俺の様子を見た彼女は驚いて、俺にクリームソーダ手渡す。そしてお店を閉じる準備をし始める。
ヤバい、心配された。
そして救急隊員の俺としては、自分の病院に放り込まれるのも嫌だったし、こんな顔を先輩や隊長に見せたくない。
「し、心配しないで。大したことないから! 俺、医者だし大丈夫だよ!」
手際よくお店の片付けをしていた彼女の後ろから、つい大きな声で叫んでしまった。
「ほんとう……ですか?」
振り向いて眉を八の字にして不安そうな表情で俺を見上げる。その瞳の奥には心配という文字が見えた。
嬉しい。
心臓は確かに高鳴っている。それでも俺は彼女を安心させるように笑った。自分で驚くくらい自然に笑えたと思う。
「本当に大丈夫。ありがとう。でも、少し休ませて欲しいな。ついでに俺の話し相手になってよ」
「はい!!」
元気よく返事をする彼女を見て、安心と同時に灯った心の火が、また強く熱くなった気がした。
おわり
百九、心の灯火
恐れていた日が来ました。
この都市は、市長が面白い車を発売することがある。
これがまた、市民のツボを突いてしまうと、みんなこぞって購入する。そうなると個性を出したくて、車の修理……いや、メカニックにカスタムを依頼しに来るのだ。
そう。
今日はそんな面白い車の発売日。
「気合い入れるでー!!」
「「「おーーー!!!」」」
社長の声にみんなが応える。
今日は事前にそうなると予想していたので、素材も多く作ったし、社員も気を使って多く出社してくれていた。
準備万端にしていると、その時はすぐにやってきた。
以前にも経験していたから、まだついていけそう。
お店が狭いのに、依頼数が凄いことに……。
そうなると、一人が対応を終わらせてたら次の社員が対応する。
カスタムを見られる場所は決まっているので、見終わったら別の場所に移動して、その間に社員がお客さん希望のカスタムに変更する。
もちろんその間に、普段通りの修理のお客さんも来る。社長はあえて修理メインで全体を見回して指示を出してくれる。
素材になる材料が足りなくなる前に素材屋さんに連絡をして、社員である私たちの手が止まらないようにしてくれる。
さすが私たちの社長、敏腕女社長と誇らしく思った。
そんな時、スマホからピコンと通知音が鳴った。
「ごめーん、こっちのカスタムやってくれるー?」
「分かりました!」
LINEが来たと思うけれど、お客さんを優先する。
もしかしたら恋人からの連絡かもしれないけれど、彼ならきっと分かってくれるし、謝ればそれも理解してくれる。そういう人だから。
私は、工具を持って立ち上がる。
「いらっしゃいませー! こちらのカスタム、承りますー!」
おわり
百八、開けないLINE
夏休みはふたりで海に泊まりがけで旅行した。
場所に関しては、サプライズ旅行にして旅程も俺自身が選んだ。
それは良かったが、最後の夜は花火をやろうと企画していたのに花火を家に忘れてしまっていた。
ルンルン気分で部屋に戻って、カバンを漁った時に、花火が見つからなくて流れる冷や汗と言ったらすんごかった。
笑顔で話したかったけれど、思わず引き攣ってしまった。
そして、状況を説明すると彼女は微笑むと、俺の手を取ってくれた。
「まだ時間もありますし、花火が売っているかもしれません。聞いてみましょう!」
そうして、ホテルのスタッフさんに教えてもらったお店に歩いていた。
俺の足取りは気持ちとともに重い。
「なんとも不完全で、ごめんね」
先に歩いていた彼女は俺に振り返り、いつものように笑ってくれた。
「謝らないでください。これも思い出です」
そして俺の腕に手を絡めながら、見上げる。
「なんでも完全じゃなくても良いんです! 私のためにいっぱい考えてくれて嬉しいですし……」
彼女は背伸びをして、俺に耳打ちしてくれた。
「そんな貴方が大好きなんです」
おわり
百七、不完全な僕
「あれ……香水、付けていたっけ?」
家で彼女とすれ違った時、慣れない香りがした。俺は立ち止まってしまい、少し考えてから声をかけてしまった。
「あ! 今日、香水を持っていたお客さんとぶつかっちゃって少しかかっちゃったんです。匂いますか?」
俺は彼女に再び近づいて彼女の匂いを嗅ぐ。いつもの彼女……いや、女性特有のかのかな。優しくて柔らかい香りが、かき消えている。
彼女は俺から一歩下がって、顔を俯かせた。ほんのりと耳元も紅くなっている。
「どうしたの?」
「へ、変な匂いじゃないです? 汗臭いとか、油臭いとか……」
確かに彼女は車の修理をする関係上、油っぽい時はあるけれど、彼女は家に帰ると真っ先にお風呂に入っているのでボディーソープの香りが鼻をくすぐる。
それから時間も経っていれば、彼女自身の香りがして俺は多幸感に溢れる……のにな。
「そういう匂いはしないよ。むしろ香水の方が気になるかな……」
胸がもやもやするのは心の片隅に置いておくとした。
すると彼女は不安そうに見つめてくる。
「シャワーに入って、結構洗ったんですけれどね」
「あ、いや、そうじゃないんだけれど……」
いきなり、彼女が俺の唇をきゅっとつまんだ。
「んふ!?」
「気がついてないでしょうが、唇がとんがってますよ」
俺は彼女に閉じられた唇のまま、ふがふが言い返すと、彼女は唇を離してくれた。
「いや……俺の大好きな匂いじゃないから不安というか……ちょっといや……かな……」
彼女は驚いた顔をしてから、嬉しそうに微笑んでくれた。
「あとでまた、ゆっくりお風呂に入りましょう」
おわり
百六、香水