恋人になる前は普通に〝さよなら〟と挨拶をして別れていた……と思う。
でも恋人になってからは、その言葉を紡げないでいた。
初めて好きになった人。
俺を大切にしてくれる人。
そんな恋人に向かって、どうにも〝分かれの言葉〟は言いにくかった。
―――――
相変わらず怪我の多い職場と怪我のしやすい恋人は、青年ではない別の先生の診察を受けていた。
ちょうど休憩をしていた青年と玄関ですれ違い、とても驚いた。
話しながら彼女を駐車場まで送る。そして彼女はヘルメットを被ってからバイクにまたがった。
「そろそろ行きますね」
「あ、うん。また……ね」
家に帰ればまた会えると言うのに、どうしても名残惜しくなってしまう。
彼女はそれを飲み込んだようで、ぎこちない笑顔を青年に向けた。
「はい、また」
出発しようとバイクのグリップを回そうとしたが、少し考えてから青年に振り返る。
「……〝さよなら〟を言う前に、〝またね〟って言いたいんです」
「ん?」
どことなく不安を覚えたのか、青年からは視線を逸らしつつ、彼女は小さく自分の言葉を紡ぐ。
ただ、彼女が言いたいことは、青年にも理解できた。
青年は微笑んで、彼女の視界に無理矢理入る。
「俺もだよ! やっぱり考えることは同じだね!」
「え?」
「俺も、〝またね〟って言いたい。ただの挨拶って分かっていても、別れの挨拶は寂しいよね!」
青年の言葉に、彼女はゆっくりと微笑んでくれた。
「はい、だから……また、帰ったら……」
「うん。また、ね!」
先程の不安の影が全く見えない程に、晴れやかな笑顔をふたりは見せあった。
おわり
お題:さよならを言う前に
彼女は終業後、カフェで恋人の青年と待ち合わせをしていた。
彼が車かバイクのどちらかで迎えに来ることになっている。
窓際で座っていて、彼女は窓から彼を探しつつ、ちらりちらりと空を覗いた。
数刻前までは爽やかな青空だった。それが少しずつ空の色合いが暗くなる。もちろん陽が落ちてきているのもあるが、明らかにそれとは違う嫌な暗さ。
落ち着こうとクリームソーダを口に含む。
だが彼女は、再びそわそわしながら空模様と道路状況を繰り返して見ていた。
ふう、とため息をついた。
「彼が来るまで雨が降りませんように……」
おわり
お題:空模様
今日の集合は、ドレスコードがあるもの。TPOに合わせて青年も彼女も支度を進めていた。
青年は洗面所の鏡の前で、滅多に使わないワックスを使用して前髪を後ろに流していた。柔らかい髪の毛が、ふんわりとしつつもワックスによって形作られる。
「コレでよし!」
あと、ジャケットを羽織れば青年はいつでも出掛けられる。
恋人の彼女は部屋から出てこない。
「あ、洗面所、空けたよー」
「はーい、ありがとうございます!」
彼女はお化粧道具とアクセサリーを持って洗面所に入る。
髪の毛を軽く直しながら、鏡に向かって色々しているようだった。
大人しく待つつもりの青年だが……ソファに座りつつも身体がジッとできない。彼女の様子が気になってしまうのだ。
こんなふうにドレスコードのあるお出掛けをするのは始めてで、彼女の着ていた服も初めて見るものだったから。
「すみません、ネックレスが上手く付けられないので助けてくださいー」
洗面所から助けを呼ぶ彼女の声を聞き、青年は洗面所にいる彼女の後ろに立つ。
そして、彼女から見覚えのあるフェルト生地の縦長のケースを渡された。
「今日のドレスに似合うと思って……」
ほんのりと頬を赤らめながら彼女は微笑む。
これは以前、彼女に似合うと贈ったアイスブルーダイアモンドのペンダント。
確かに今日の彼女の薄水色のドレスにはピッタリだった。
彼女の首にペンダントを付けてあげた後、鏡に映った彼女に目を奪われた。
ほんのりとお化粧をして、いつもの愛らしさよりは大人っぽくて、誰よりもきれいだと思ってしまった。
そして、首元を飾るのは自分が贈ったペンダント。
「どうしましたか? 変……です?」
彼女が眉間に皺を寄せ、不安な顔で青年を見上げてくる。ほんの少しだけ開いてしまった口をきゅっと閉じて、彼女を後ろから抱き締めた。
「変じゃないよ。すっごく、すっごくきれい」
彼女の肩に顔を埋め、抱き締める腕に力を入れた。
「誰にも見せたくないくらい、きれい」
おわり
お題:鏡
部屋の中にひとつ、特別な箱がある。この箱には彼からもらったものが全部入っていた。
最初に貰ったものは、この箱に入らない少し大きなもので、クローゼットに立て掛けてある。それはスケートボード。
あれから何度も使ってボロボロになっていて、新しいものを買っている。それでもこのスケートボードは宝物で、いつまでも捨てられないものだ。
時々、恋人がこのスケートボードを見て苦笑いする。
「こんなボロボロになったの、取っておかなくて良いよ。また買ってあげる」
そう言ってくれるが、彼女は断っている。
「これが良いんです」
そう返して、スケートボードを優しく撫でた。
おわり
お題:いつまでも捨てられないもの
俺の仕事は救急隊員で、人を救助することだ。
今日は病院待機で、外来も対応する。
順番で来たのは二人の女性。ひとりは俺の大事な人と、彼女の同僚だった。
「あれ!? 二人ともどうしたの?」
「修理している彼女の横を通っちゃって……」
「間違って殴っちゃいました」
「うわ、ご愁傷さま」
彼女たちは車の修理をする中で、近くを通った同僚を殴ってしまったらしい。
修理をする会社は人気で、ひっきりなしにお客さんが来る。その割には会社は狭いので、なにかの際に怪我人を……よく出す。
それこそ、救急で呼ばれて地図を確認した時、住所の一部を聞いてすぐ彼女の職場だとパターン化するほど。
今日は彼女がうっかりと怪我をさせてしまい、責任を感じて、同僚の付き添いできたということか。
「じゃあ、診るね」
俺は彼女の同僚を診察した。彼女の怪我の具合を確認しながら治療する。
「はーい、これでオッケーだよ」
「ありがとう、先生」
「ありがとうございます! あ、治療代は私にください」
「え、良いよ」
「ダメだよ、私がやっちゃったんだし」
俺の恋人は同僚への言葉を聞いて、小さく笑ってしまった。そして、請求書は恋人へ渡す。
「はい、お願いね」
「ありがとうございます、受け取りますね」
治療が終わり、丁度休憩の時間になるので、二人を見送ろうと一緒に診察室を出ようとする。俺は診察室の扉を開け、二人を外に促した。
恋人の同僚が先に診察室を出て、恋人が俺の前を横切ろうとした時、そっと俺の指に彼女の指が絡まる。
「ありがとうございました」
「どういたしまして」
見上げる視線が魅力的で、抱き締めたい気持ちになる。けれど流石に我慢した。
するりと指が抜けていくと、少しだけ寂しさを覚えた。
「また、夜にね」
「はい、いつも助けてくれて、ありがとうございます!」
彼女の言葉に心が温かくなった。
危険なこともあるけれど、こうやって身近な大事な人を助けることもできる。
俺の誇らしき仕事だ。
おわり
お題:誇らしき