私は大樹の前に立つ。そっと樹皮に触れる。
ザラリとした感触、不思議。此処では感覚はないはずなのに、感覚がはっきりとしている。
風も感じる、春風のように暖かくて心地よい。
私は暫く風と樹皮に触れたままでいると、ある親友を思い出す。
もちろん、彼女が此処に現れるわけないということは承知している。しているのに、何故か期待している自分もいる。
私は思わず、懐かしい人の名を口にする。
すると、後方から抱きしめられ心臓が跳ね上がった。
「やっと会えた。……会いたかったよ」
嗚呼、私も会いたかった。私はか細い親友の腕に手を置く。
風を感じて、懐かしい声、ずっと聞きたかった声に耳を傾ける。
これが夢じゃなかったら、私はきっと声を掛けていた、振り返っている。
それができないから、私は彼女の温もりを噛み締めた。
本当は元気付けたい、前へ背中を押したい。そんな、何かを彼女に上げられたらこの疼きも少しはまだマシになるだろう。
――もういない人だから私は何にも残して上げられない。
風を感じて、これが夢だったらよかったのにとそう思った。
〈了〉
何もない空間、私一人。
光はあるけれど、貴方はいない。
夢だと思いたいけれど、夢じゃないと誰かが言う。
私は声を張り上げ、貴方の名を呼ぶ。
絶えず呼ぶ。声は枯れ出せなくなる。
耳が痛くなるほど静寂が辺りに横たわる。
酷い孤独、胸が不安で埋もれる。
すると、何処からか蝉の鳴き声が聞こえ、私は振り返った。
貴方が大樹の下に立っていた。
私の足は無意識のまま、貴方の元へと向かっていた。
〈続〉
ぬるくなった炭酸飲料を君は相変わらずの無表情で飲んでいる。
背を伸ばす入道雲、晴天の空、夏の青と君の汗と。
こころは遠く、伝えたい言葉は頑丈に施錠されたまま動けないでいる。
光陰矢の如し、時間は有限だ。あと少しで長い夏も終わる。そしたら、私は。
「嗚呼、暑いね」
「そうだね」
やっぱり、私には無理だ。素直に思いを伝えるのは。
私は目を閉じ、君に寄りかかる。小さい肩は微かに震えたが、嫌がらない。溜め息もなく黙って肩を貸してくれた。
すっかりぬるくなった炭酸飲料を握ったまま、君との最後の夏に思い馳せた。
幼い妹の背を見た。
過去へ戻れないかなと考えていた。
大人になるに伴い、そんな子供の浅い考えも消えていった。過去は過去と分別し、函の中にしまい込んだ。
次第に過去は錆びつき、思い出はセピア色に風化する。
だけど、ふと思い出そうとする自分がいる。
私は幼い妹の背を見た。背を丸くし猫のようだと思った。小さな背は泣いてる。
私は何も言わず、その小さい背を抱きしめた。
無邪気に笑う君。
8月の終わりにいなくなった君。
蝉、風鈴の音、夜風と共にあぜ道に漂う儚いのに強さを感じる蛍火。
また8月がくれば、僕の影が君の影を探している。
無邪気に笑う君の名を呼びたい。