彼女は行ってしまった。
誰も彼女を知らない、遠くの街へ。
それは、悲しみを一人で背負う悲劇のヒロインだ。
「私、居なくなるんだ」
その言葉の意味が最初分からなかった。
例えば病気や寿命で死んでしまうとか、親の海外赴任がきっかけで転校を余儀なくされるとか。そういう訳じゃない。
「存在が無くなるの」
消えるんだ。
記憶からも、記録からも。文字通りの意味で。
一種の幻であったかのように。
不思議で、でも寂しくて。
信じる他無かった。
足の方が薄らと存在を否定するみたいに消えている。
「急にいなくなったら寂しいじゃない? だから、私を誰も知らない所まで行ってひっそりと消えて無くなる」
死ぬ直前の飼い猫のようだと思った。
一日、一日と時が過ぎていく。
寂しい事が、知覚できない寂しさ。
何もしてあげられない無力感。
そして───。
「あれ……ぼくは何を考えていたんだっけ」
書く事を忘れた。だからここで終わる。ただ心の一部が抜け落ちたような、喪失感だけが、ぼくの胸の中で蔓延り続けていた。
受験シーズンになると、やはり中には現実を受け入れられない生徒が出てくるだろう。国公立の二次試験、前期日程が終わったこの時間は、堕落の象徴というべきか何にも手が付かない。
もし、落ちていたら。後期に向けた勉強に勤しまなければいけないのに。そんな絶望的な未来を遠ざけたくて、現実逃避する。
家に引き籠もってゲームする。親には勉強していると嘘を付く罪悪感で、胸が圧し潰されそうになった。無事に第一志望に受かったとしても、その数週間の恐怖は決して癒えない。
別の世界線では、ぼくは病院のベッドで意識不明の状態で横たわっており、自分の都合のいい夢を見ているだけなのではないかと想像さえしてしまう。
何を隠そう、これは筆者の実体験である。
【お知らせ】
今日で投稿し始めて、一ヶ月になりました。
たくさんの♡ありがとうございます。
Twitter ゆずし(@yuzunaro)にも記念にのんびり投稿していこうと思います。
感想等もしよければ、是非お越しください。
空を見ていた。
日が落ちた空に爛々と輝く上弦の月。
そして、西の空には木星と金星が寄り添い合っている。
確か3月の始め頃に最接近するんだったか。同じ空を君は今見ているのだろうか。
彼女は良家のお嬢様だった。上流階級の子供には未だ、政略結婚という文化が根強く蔓延っており、ぼくはその制約によって彼女を奪われた。いや、その表現も実際はどうなのだろう。
ぼく達の恋愛こそ、遊びだったのではないか───。
トゥルルル……電話が鳴った。知らない番号だ。
「はい……」
「お嬢様も今、星を見ておられますよ」
この声、聞いた事がある。確か、彼女の傍付きのメイドで唯一彼女が心を許している相手だった気がする。
「貴方と会わなくなって以来、お嬢様は笑わなくなりました。いつも星を見て、過去の思い出に浸っているようです」
「……何が言いたいんですか」
「お嬢様ともう一度会って頂けませんか?」
最接近すれば、それを境にずっと離れてしまう。
辛くなると分かっていて、それでも会うなんて。
「来月、お嬢様は婚約を結ばれます。そうなれば最後、もう二度と貴方と会えなくなるでしょう」
「だったら───ッ」
「その前に、"貴方が奪ってしまえばいい"」
肌寒い夜の街、ぼくは走っていた。
あの電話は、単なる勧誘じゃなかった。
あれは、ぼくと彼女を引き合わせる魔法の電話だ。
暗闇に紛れるように、公園の中一人ぽつんと立つ彼女を見つけた。久しぶりだからか、心の躍動は収まらない。彼女もぱぁぁと笑顔を咲かせてぼくに手を振った。
「ねぇ。切符を二枚貰ったのだけど何に使うのかしら?」
「いいからこっちに来い。逃げるんだよ!」
どんなに苦しく藻掻こうと。
会えない苦しみに比べればずっと楽なんだ。
「好きだ。もう一生離れない。君はどうなんだ」
「えっ、何……いきなり。そりゃ私だって」
「はっきり言え」
「私もっ……、君とずっと一緒にいたいっ」
なら決まりだ。ぼくは、彼女の手を引いた。
君は今、何を想い、何を感じているか。
ふざけんな、直接聞いたら済む事だろうッ!
「行こう」
運命なんて、自ら切り開けばいい。
パシャリ。
ぼくは無意識の内に写真を撮っていた。
何故ならそれが、一枚の『絵』のように完成された画角で、物憂げな空を見上げる彼女に、見蕩れてしまったからだ。
「……?」
「ご、ごめんなさい。えっと───」
「いいよ、別に。"慣れてる"から」
彼女は、アイドルだった。ぼくはどちらかと言うと二次元寄りで、アイドルという存在に疎かったけれど、彼女の美貌を目の当たりにした瞬間、「なるほど」と思わせるだけの説得力があった。
「よく撮れてるね、それ」
「あっ……えっと。すみません」
「いいの。褒めてるから」
一息置いて。
「凄く純粋に、私を捉えてると思ったから」
声を聞く度に、どこか幻想に包み込まれるようで不思議と彼女に魅入られていく。
「何を、悩んでいたんですか?」
「えっ……どうして?」
「さっき、空を見上げている貴女が、何かを思い詰めているような表情だったから。余計な事、聞きましたか?」
「ううん。君の言う通りだよ」
もう一度、空を見上げた。鈍色の雲に覆われた空はまるで彼女の心の内を表しているようで、どこか落ち着かない。
「私がアイドルになったのは、弟の為なんだ。弟は、生まれつき身体が弱くて、入院生活が続いてた。だから、あの子に……テレビの中でも私を見せてあげられたらなって」
「素敵な理由ですね」
「でも……もう、死んじゃった」
ぼくは軽く目を見開いて、己の失言に気が付いた。ぼくの謝罪を目で制すると、それから訥々と彼女の心境を語った。
「じゃあ今の私は何の為にアイドルをやっているんだろうって」
難しい質問だった。それは当たり前で、数分前までぼくは彼女がアイドルである事にすら気が付かなかったのだから。
今の彼女は、硝子細工のように繊細で、言葉一つで簡単に未来が変わってしまう気がした。それでも、何故かぼくは他人のように思えなくて何とか言葉を紡いだ。
「じゃあ、今は……今はどうですか」
「えっ……?」
「今は、弟さんの為だけにアイドルをやっているんですか。少しでも、楽しいと思う事は無かったですか」
彼女は少し迷う様な仕草をして。
「あった、かも?」
「なら、今度は自分の為にアイドルを続けたらいいと思います。勿論、楽しければ……の話ですが」
これで答えになっただろうか。彼女は一度満足するように頷くと、一枚のチケットをぼくに手渡した。
「これ、次のライブのやつ。見に来てよ」
「……いいんですか?」
「うん。これは、自分の為に行う初ライブ記念だから」
彼女は悠々と去っていった。
物憂げだった空から、雲の合間を縫う一筋の光が照らされた。これから彼女は彼女自身の為に人生を歩んでいく。その姿を、ぼくを見に行くとしよう。
妊婦の方が電車に乗ってきた。
親切心というのは、咄嗟に出るものじゃなくて習慣的に養っていくものだと思う。ぼくは条件反射的に席を立ってその人に席を譲っていた。
「ここどうぞ」
「あら、ありがとう」
「せっかくデート中なのに隣を譲っちゃうなんてね」
そういえば、今日のぼくは彼女とデート中だったのを忘れていた。明らかにへそを曲げている彼女になんとか機嫌を直してもらおうと謝り倒していると、「冗談冗談」といたずらっぽく笑った。
「君の親切にケチつける訳ないじゃん」
よかった。怒っていなかったようだ。
「さっきの人、妊婦さんだったね」
「うん。じゃあ君は、二人に席を譲った事になるね」
「ええ? 胎児も一人に数えるのか?」
「胎児にも相続権はあるんだよ? 日本じゃそう珍しい考え方じゃないんだよ」
「そんなもんか」
「そんなもんだよ」
お腹の中に眠る小さな命もまた、ぼくらと同じなんだ。
彼女の手が、ぼくの手をそっと握り締める。
「私達も……いずれは、ね」
「あーうん。そう、だね」
耳まで真っ赤にした彼女は、しばらく顔を合わせようとしなかった。