「あなたって本当に変わらないのね」
秋の冷たい通り雨は私の罪を露見した
ー
「まさか、こんなことが、悪かったよ」
声の端々がぶれる
今までろくでもない大嘘を
山ほど平坦についてきたはずだが、
今回ばかりは動揺が隠せなかった
「別に、どうせ
こういうことしてるんだろうなって思っていたもの」
差し出した傘を持つ手を握られていては
容易に逃げることも出来ない
力ずくで振り切れば良い話だが
力を使っても切れないものが私たちの間には既にあった
私は逃げるのも隠れるのも諦めて
ひとつため息をつき
何年かぶりの彼女の顔をまじまじと見つめた
「相変わらず良い女だね、惚れ惚れする
また間違えて声をかけちゃうから、
今度からはその美貌控えめにしてくれる?」
「どうもありがとう、でもそれは無理なお願いかな
悪い男と離れて身も心も磨きがかかっちゃったの……おかげさまでね」
「あはは…そりゃあ…」
失言
この感じは久しぶりだった
女たらしの私の口車に乗らない
高貴な様に私はいつも黙らされていたっけ
「あなたは変わったわね、
痩せて、前より男っぽくなった
まだまだモテるでしょう
こんな感じで声をかけられたら大体の女の子がなびく」
「勘弁してくださいよ」
彼女から目をそらそうとする度に
挑戦的に視界の中に入ってくるものだからたまらない
そろそろ手だって離していただきたいのに
彼女の指は意思が強かった
「そろそろ、いい?次の予定があるからさ」
「嘘つき、私じゃなかったら今頃良い思いしてたくせに」
私は2つ目のため息をついた
この通り雨の中、
傘をささずにいる淑やかな見返り美人に声をかけたら
かつての大恋愛の相手だったなんて
「…ねえ、今もひとりでいるの?」
途端に
勝気だった声が弱くなった
雨に濡れた肌が真珠のように輝いて見える
私は口を固く閉じて
その宝石から目を逸らした
それが
だらしのない私が唯一できる
小さな復讐であった
何があっても言うまい
どれだけ心が浮つこうとも
私の思いは未だあなたの元から
逃げられずにいるのだと
私は彼女の
美しい薬指に煌めく指輪に誓って押し黙り
ひたすらに通り雨の音に耳をすましていた
「馬鹿じゃないの、そんな男やめなって」
秋の夜長、
場末のバーでの語らいは勢いを増す
「わかってる…わかってるけど、可愛いのよ」
秋恋という沼に足を取られて抜け出せないママは、頭を抱えてうんうん唸っている
「月にいくらあげてるの?
そいつママのお金が好きなんだよ」
「ちょっとやめて、
あの子はそんな子じゃあ……」
カウンターを挟んだ真向かいにいる
大きなママは遂に口を噤んだ
頼もしい肩幅に蛇のうろこ模様の刈り上げ
見た目はいかついのに
その心は
あまりにもささやかで密やかで優しいのだ
「…でも、いい!例えあの子が好きなのがワタシのお金だとしてもね!可愛いボクが求めてくれるならそれでいいの!」
吹っ切れたのだろうママが高らかに宣言する
「まあママが幸せなら、
それでいいならいいじゃない
どうせ人なんてすぐに死んじゃうんだから、
今幸せなのが1番いいよ」
ママのえくぼの溝が深くなった
その笑顔は母性を彷彿させる
きっとそのクズ男も
こういうところが好きなんだろうか
「あんたのそういう所大好きだけど、
死んじゃあダメだからね
刹那的な愛こそ人生の彩りよ、
愛に生きなさい」
「わかってるよ、ママ
好きなの飲んで、私の奢り」
そう言うと彼はにっこりと歯を見せて
ジンを注ぎ始めた
深まる夜に会話を交わす相手がいること
それだけで私の人生は愛に満ち溢れている
スコッチ・ウイスキーを噛み締めながら
ママの秋恋話にもうしばらく耳を傾けていた
「大事にしたいんだ…」
あの声が聞きたくなった
私の心を強引に揺さぶるあの人の声が
これより少し高くて掠れている冷たい声
つまらない
どいつもこいつも少女漫画を
参考にしすぎなのだ、
それか今どきは女心がわかるとか謳うネットサイトだろうか
最高に良い雰囲気の横浜の夜景の下、
最高に良いステータスの男に見つめられながら
私にとって最悪そのものだったあの人を思い返していた
目の前の男の瞳は潤んでいる
充足していて満ち足りている透明感
私は途端にあの人が
恋しくて堪らなくなってしまう
子供のように全部欲しがり
手に入るまで喚き散らし、
いざ手に入ったら遊び尽くして
飽きたらポイッ
そういえばあの人の瞳は乾いていた
諦念のようなものが常に浮かんでいて
あの瞳に見つめられると
どうしようもなく愛おしいと同時に
無性に可哀想になって
大丈夫だよ一緒にいてあげるからね
と痩せた背中をさすってやりたくなる
「どうしたの、大丈夫?」
私はあの人の事を我が子のように愛したのに
あの人は私の事を
大事にするところか、
ずっと反抗期の娘のように反発しまくって
遂ぞ私の前からいなくなった
私は目の前の男を透かして
あの姿かたちをを思い浮かべた
痩せた肩、腕、足
少し痩けた頬、
滑らかな髪の毛、
色の濃いくちびる、
涙ボクロ、
短いまつ毛、
諦めがちな黒い瞳
そのどれもが一級品ではないはずなのに
彼女からは壮絶な色気が常に薫っていた
退廃的で堕落していて
私はあれをひたすらに愛していたのだ
私はこの先ずっと男の腕に抱かれながら
あの細くて白くて冷たい女の背中を思い出すんだろうか、
そう考えると途端に人生が長すぎるように思えて辛くなってしまった
彼女はいつも僕の左胸に耳を当てて眠る
それは僕たちが付き合うにあたり
まず最初に取り決めた
必ず守らなければならない約束だった
ー
ベッドサイドテーブル上の
水色の錠剤が寂しそうにこちらを見ている
お前より僕の方が役に立っているんだぞと
誇らしげに見下していると
腕の中の彼女がもぞりと動く
それは花の芽吹のように
柔らかく愛しい感触だった
僕が彼女の名前を呼ぶと
オニキスのように煌めく瞳と目が合う
形の良い唇が動いたと思えば
美しい声音が僕の鼓膜を撫でるように響いて
意図せず胸の鼓動が高鳴った
こんなことで急ぐ心臓を持っていることに
多少恥ずかしさを覚えたが
彼女は何も無かったかのように
また僕の左胸に頭を預けて寝息を立て始める
ああ幸せだ
今この瞬間が人生の中で最も幸福だ
彼女が呼んだのは僕の名前では無い
しかし誰がなんと言おうと僕はこの世で1番幸せで、
心の底から喜びに満ち溢れているのだ
彼女を構成する一つ一つの部分が
不十分であった僕の全てを満たしてくれる
白くて細い
木蓮のような肌の下に
脈打つ血潮の香りを思い浮かべて
ひたすらに彼女の目覚めを待っていた
※1部トラウマを彷彿させる
表現がありますのでご注意ください
大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好
ポトリ
私の日記帳に綴られた愛の言葉が滲む
黒のインクがフワリと水の中を舞うのを見ると
突然全てが馬鹿らしくなって
机の上のものを全て薙ぎ払った
静かな部屋に派手な物音が響く
次いで私の笑い声が
この世のエラーのように
部屋の隅まで響いた後、溶けて消えていく
なんにも面白くないのに笑っている自分に
疑問符が浮かぶが、私の笑い声は止まらない
いつからか
気がついたら私の心と体は
乖離していた
先程壊れた機械のように綴った愛の言葉は
自分に向けてのものだった
センセイに書けと言われたから
自分のことを好きになりなさいと
好きでもない自分のことを大好きだと書けと
そう言われたから書いていたけど
左手が痛くなったからやめる
あ
そうだ
私はまだ心と体が繋がっている部分があった
痛みだ
痛みを避けたいという
本能的な部分は未だ私の中にあるようだ
ならば
私が
嫌いな人にしたいことは…
気づくと私の右手には鋭く光るそれがあった
どうか私の好きな人が
今日も無傷で穏やかでありますように
そして私の嫌いな人が不幸せでありますように
私の歪んだ口角はそれだけを祈っていた
ー
ふと私の日記帳に広がった
黒いシミに
深紅が重なるのを見て
蚊を潰した後のようで面白いと思い
笑おうとしたが
もう私の声は響いてこなかった