ああ、もうわかったわかった
今日がひなまつりなのはもうわかった
めでたいめでたい、はいはい
俺には全く関係ないけれど
駅構内に溢れかえる大量の人々と
甘ったるい焼き菓子の匂いにはもう沢山だ
ひなまつりがなんだって?
いいなあ祝えるような人達は
こちとら何ヶ月も前から準備をして、
高いユンケルまで飲んで
備えに備えたプレゼンが見事大失敗
もう思い出したくもないから思い出さないけど
それはそれは……
一周まわって
拍手喝采!スタンディングオーべーション!
レベルの酷い出来だった
「さあ、どうぞどうぞ!残りおひとつです!」
もういい加減やかましい
怒りの念を込めてそちらを見ると、
馬鹿みたいな色のちまっこいケーキが1つ、
1000円の値札
アホか
一口1000円の着色料と砂糖の塊から目線を外す、
ふとその隣のショーケースに目が止まった
小豆色、まっ茶色、黄土色…の四角
羊羹か
馬鹿みたいに売れ残っている
店員らしきおばさんも売る気がないのか、
なにかを読んでいて俯いている
地味な色で、光も対して当てられず
硬そうで寂しそうに佇んでいる
気がつくと俺はそのショーケースの前に立って
おばさんの羊羹みたいな色の目と目が合っていた
なんだか突然謙虚な気持ちになり、
それを追い越すように悲しさが込み上げてきた
いつか報われたいよな
羊羹も、俺も
俺が声を発するより早く
「サービスしようか、お兄さん。どれがいい?」
と優しげな聞こえた時、
俺の目にうつる羊羹はもうぼやけていて、
「お姉さんのオススメで」
と言うのが精一杯だった
また知らない天井の下で目が覚める
私好みのオリエンタル柄の天井
昨夜の私はこの天井ごと
横で寝ている女性の事をさぞ褒め、
さぞ盛り上がったことだろう
今の私の頭には頭痛しか残っていない訳だが
床に乱雑に散らかった衣類から
自分のものを取り出して着ると
ベッドの上の彼女が寝返りを打って背中を私に見せた
軽く化粧をして身支度を整える時間を経ても、
その人は目を覚まさなかったので
彼女のものと思われる衣類をたたみ、
もう二度と見ることの無い天井に別れを告げ
覚えのない玄関ドアを開けて外に出た
朝なのに重い雲が空をおおっている
しかし私の足取りは軽やかで、
頭の鈍痛など吹き飛ばすほどに心が弾んでいた
今日が月曜日だから
たった一つの希望に出会える日だからだ
土日はいつも「こう」だ
金土の夜は浴びるほど酒を飲んで
気がつくといつも知らない女の子の家のベッドで
一糸まとわぬ姿で寝ている
こんな生活を続けていたら、
いつか女の子に刺されるか、
頭が体のどこかに不調をきたすと思うのだが、
今のところなんとか生きている
たった一つの希望……
ないし想い人に会えない土日は
寂しくて苦しくて敵わない
酒と女の子たちに溺れないと気が狂いそうなのだ
こんなことをしてはいけない、と思うのに、
何故か毎週同じことをしている
想い人に対する私の異様な恋心と一緒だ
心の中で微笑をこぼし、
たった一つの希望に会うために
私は満員電車に果敢に飛び込む
荒れ果てた土日を過ごした後に
出会う月曜日の想い人は、女神のようだった
今日のような日は
どんよりとした曇り空の地上を照らすミューズの如く
美しく尊く、絶望的に輝くのだろう
「ねえねえ」
「なに?」
「最近調子はどう?」
「ぼちぼちかな」
「そっかあ、あのさ、
僕の方は占いができるようになったんだよ」
「へえ」
「君の顔を見ただけで、
お天気がわかるようになった」
「なにそれ笑」
「ほら、今は物憂げな空だ。
菫色の空に黒い雲が揺らめいてる、雨が降るのかな」
「えっ、すごい!なんで分かったの?」
「あ、今は分からなくなっちゃった、
気まぐれなんだ、この能力」
「え〜なにそれ、
まあいいや、またわかったら教えて」
「うん。君と一緒でね、気まぐれなんだよ」
君のオニキスみたいな瞳は
天気や景色をよくうつしてくれるんだ
僕を見ていない時に限るけれど
「この世でしなくちゃいけないことなんて、
たった1つしかないのよ」
ふと聞こえてきたその言葉に
私はきょろきょろと当たりを見回した
だが、どこにも人などいない
それどころか生き物の気配さえ感じない
それもそうだろう
十年に一度と警報される嵐の日に、
海に近づく死にたがりなど私だけだ
ならば一体誰が、と思考をめぐらせて気づく
私の頬が濡れている
雨ではない、
こんなに熱い雨があってたまるか
感覚のない氷の手でそれを拭うと
言葉の続きが聞こえてきた
「小さな命を守ること」
あれは何年前のことだ?
あの人の温もりが未だ近くにあった時、
ムースのように滑らかで優しい声が私にそう告げた
私には守るべき小さな命などないと放った
私は一生独りだ、あなたとは違う、と
そんな私を見てあの人は哀れんだような
愛おしいような不思議な表情を浮かべて沈黙した
あの時、
あの瞳は私を見つめていた
一心に、ひたすらに、一直線に
私の目を、
私の過去ごと、
私の全てを見つめていたのではないか
守るべき小さな命とは
「あっ……」
人生最大の忘れ物に気づいた私は
慌てて波をかき分けて砂浜に戻った
先程、もう二度と必要になることは無いと思って放り投げたバックの中を漁り、
頭であの人の名前と言葉を反芻した
この世を旅立つ前に
お礼を言わなくちゃいけないと思ったのだ
しかし震える手では上手くスマートフォンが操作できず、凍りかけた脳の回転速度は遅かった
しかも私の脳内では何故か、
日本語や英語や、齧った程度のフランス語、
清少納言やゲーテの詩やらが
すったもんだしていて
なかなか欲しいものが出てこない
そんなことをしている内に
天から滑らかでしなやかで、
何にも例えようがないほど清らかな声が降ってきた
「ねえ、貴方にとっての小さな命って私だったの?」
彼女は前と同じ表情をして頷いた
「でも、それじゃあ、まだ80点。」
人に教えることを生業としている彼女は
しばしば点数で物事を評価する
わかりやすいから点数をつけているけれど、
本当は数値化できるものなどないのだといつも言っていた
「あなたにも、自分の命を守って欲しかったの。
どれだけ大きくなってもね、
自分を大切にすることが、
自分の小さくてちっぽけな命を守ることが、
人間一番大事なのよ」
気づけば嵐は止んでいた
雲の合間から差しこむ光に照らされる彼女は
まさに聖母のようだった
文字はその人の現在を表す、と私は思う
流れるような筆記体に飾られた便箋からは
アールグレイと香ばしいスコーンの香りがする
……さすがに気のせいかもしれない
ともかくその便箋からは
暖かい幸福が匂いたっていた
上質なザラザラした紙に生かされた文字は
芸術のように美しく、
流暢に彼女の現在をこと細かく説明してくれた
日本が昼ならこちらは夜だということ
朝は6時に起きて近所の公園に散歩に行くこと
仕事は楽しく、順調だということ
先日、ブティックで上等なコートを購入したこと
体の調子はあまり良くないが、
愛しの旦那様とラブラブだから全然気にならない…
いや、これはただの勝手な当てつけの解釈か
でもまあそんな感じだ、
意訳としてはおおかた間違っていないだろう
惚気を流し見して、
文の最後まで辿り着くと、
一際美しい「それ」に目が止まった
Love you
思わず呟いていた
Love you
呟いて後悔した
なぜか彼女の声で自動再生されてしまったのだ
呟かなかったこと、
聞かなかったことにして
便箋を封筒にしまう
日本で言うところの
敬具、だと自分に言い聞かせても
私がこの世で最も欲しかったものに似た言葉に自然と胸が高鳴っている
無駄な高鳴りだ、
残念賞。無意味に高鳴って馬鹿な心臓だ、
そのまま大きく弾んで
なにかの弾みでピタリと止まってしまえばいいのに
彼女の幸福に痛みを感じる自分など
「会う前に戻れたら良いのにな」
叶わない願いを口にして、
封筒を机の奥にしまった
もう二度と見たくない
もう二度と、
手に入らない幸福など
夢にも見たくない