「この世でしなくちゃいけないことなんて、
たった1つしかないのよ」
ふと聞こえてきたその言葉に
私はきょろきょろと当たりを見回した
だが、どこにも人などいない
それどころか生き物の気配さえ感じない
それもそうだろう
十年に一度と警報される嵐の日に、
海に近づく死にたがりなど私だけだ
ならば一体誰が、と思考をめぐらせて気づく
私の頬が濡れている
雨ではない、
こんなに熱い雨があってたまるか
感覚のない氷の手でそれを拭うと
言葉の続きが聞こえてきた
「小さな命を守ること」
あれは何年前のことだ?
あの人の温もりが未だ近くにあった時、
ムースのように滑らかで優しい声が私にそう告げた
私には守るべき小さな命などないと放った
私は一生独りだ、あなたとは違う、と
そんな私を見てあの人は哀れんだような
愛おしいような不思議な表情を浮かべて沈黙した
あの時、
あの瞳は私を見つめていた
一心に、ひたすらに、一直線に
私の目を、
私の過去ごと、
私の全てを見つめていたのではないか
守るべき小さな命とは
「あっ……」
人生最大の忘れ物に気づいた私は
慌てて波をかき分けて砂浜に戻った
先程、もう二度と必要になることは無いと思って放り投げたバックの中を漁り、
頭であの人の名前と言葉を反芻した
この世を旅立つ前に
お礼を言わなくちゃいけないと思ったのだ
しかし震える手では上手くスマートフォンが操作できず、凍りかけた脳の回転速度は遅かった
しかも私の脳内では何故か、
日本語や英語や、齧った程度のフランス語、
清少納言やゲーテの詩やらが
すったもんだしていて
なかなか欲しいものが出てこない
そんなことをしている内に
天から滑らかでしなやかで、
何にも例えようがないほど清らかな声が降ってきた
「ねえ、貴方にとっての小さな命って私だったの?」
彼女は前と同じ表情をして頷いた
「でも、それじゃあ、まだ80点。」
人に教えることを生業としている彼女は
しばしば点数で物事を評価する
わかりやすいから点数をつけているけれど、
本当は数値化できるものなどないのだといつも言っていた
「あなたにも、自分の命を守って欲しかったの。
どれだけ大きくなってもね、
自分を大切にすることが、
自分の小さくてちっぽけな命を守ることが、
人間一番大事なのよ」
気づけば嵐は止んでいた
雲の合間から差しこむ光に照らされる彼女は
まさに聖母のようだった
2/25/2023, 9:58:31 AM