春風は不思議な娘だ。
「なぁ、まだ帰らねぇの?」
俺は何度目か分からない質問を春風芽已の背中に投げた。
彼女は幼稚園からの幼なじみで、いつからだったか、一緒にトンボを捕まえたり、親に内緒で買い食いをしたり、そんな過ごし方をする仲になった。
小学校も中学校も、いま通っている高校も縁あって同じだ。
1年生の時は同じクラスだったが、2年生の今は別々のクラスだ。
さて、当の本人は聞いているのかいないのか、右手の人差し指を唇に当てて、大衆的な雑貨店内をキョロキョロしている。
アレは集中している時の癖だ。
「うーん…有りそうなんだよなぁ…」
春風はぶつぶつ呟くと、長い黒髪が床にくっついても気にせず、カラーボックスの一番下の段を覗き込み、手を差し入れて物色している。
「…」
汚れにも無頓着。
案の定、右の掌は年季の入った埃で黒く汚れていた。
…ったく!
「おい」
俺はずかずかと春風に近づき、右手首を掴んだ。
すかさず、きちんとアイロンがかけられたモスグリーンのハンカチで春風の汚れた掌を拭った。
「何?夏木」
春風はされるがままだ。
「お前、そんな汚ねぇ指を口につける気か」
「え?…あー」
そこで春風は、初めて気がついたというようにハンカチで擦られている右手を見た。
でも、それも一瞬。
直ぐに視線は店内へと移される。
俺はため息をついて、手早く汚れを拭いた。
だから、放っておけない。
「ほれ、きれいになったぞ」
春風の眼前に右手を差し出してやる。
動じない春風。
右手と会話をするように
「夏木、ありがとう」
と言って振り返った。
ベルベットのような黒髪が美しく揺れる。
緑がかった瞳が俺をとらえたことを知り、ギクリと体が硬直する。
それは1桁の歳から見慣れてきたはずの、ただの幼なじみの顔。
そのはずだが―
俺はハンカチを握る右手に意識を集中した。
モスグリーンの生地に黄色の蛙の刺繍。
刺繍の下にコバルトブルーの丸い書体で『YOUSUKE』とある。
春風が、家族で温泉旅行に行った時の土産だったはずだ。
既製品のハンカチに名入れをしたのだと。
別に、春風の贈り物癖には慣れた。
春風から贈られる物は、だいたい奇抜で一度みたら忘れられない。
だから、特別感があって捨てられない。
「『モウドクフキヤガエル』使ってくれてるんだ」
春風は俺の右手を指差した。
俺は一瞥して言った。
「ま、目立つし」
春風はくすりと笑った。
「大事にしてくれてて嬉しいよ」
#大事にしたい
「潤いがほしい…」
藤代登吾は、アイスティーを飲み干すとテーブルの上に崩れるようにして言った。
「なんだよ、喉渇いてんなら追加で頼んでこいよ」
鈴城董吾は、呆れた顔で店内のレジカウンターを顎でしゃくった。
とある大手ファストフード店で、2人は部活後の腹ごしらえ中である。
「…違う…、心の潤いってヤツ…」
登吾のか細くくぐもった声を何とか聞き取ると、董吾は思わず飲んでいたアイスコーヒーを吹き出しそうになってむせた。
「おいおい、大丈夫かよ」
登吾の口調は心配そうな素振りを見せつつ、その態度は董吾の噴射を避けるようにしっかり後ろへのけ反っていた。
「そ、れが…しん、ぱいするヤツの、、げぇほっ、、態度かよ」
激しく咳き込んだ董吾は泪目で登吾を睨んだ。
「俺、まじ干物になりそうなの~、聞いてよ、かおるん」
2人は同じ読みの名前であるため、ややこしいから違う呼び方をしようというのが、2人で決めたルールだ。
鈴城董吾が、「かおる」。
藤代登吾が、「のぼる」。
はじめは、苗字の一字で呼ぶ案もあったが、登吾が「ふじ」と呼ぶのに対して、董吾は「すず」とか「りん」とかが候補だったので、「女子っぽいから嫌だ」という董吾の猛反対で無しになったのだった。
董吾は何度か空咳をすると、話の続きを促すように掌をひらひらした。
「最近フラれてさぁ、まぁ、なんつーか。…今までってさ、お互い軽いノリで始まって終わってだったのよ」
「…」
董吾は、無言でフライドポテトを口に運んだ。
「カレカノは無理だったけど、また友達ね~みたいな」
「俺には分からない世界だな」
董吾は真顔だ。
登吾は空になったアイスティーを未練がましくズゾッと吸うと、
「なのに、今回は『好きが感じられない』って。なんか信用されなかったみたいでさ、別れることになったんだ」
登吾は仔犬のような、縋るような視線を董吾に送った。
世の女性たちは、コイツのこういうところに庇護欲とか母性本能を刺激されるんだろうな。
『だったら、私が慰めてあげようか?』
と耳元でささやく女子大生とか
『登吾が彼氏だなんて、毎日会いに行っちゃう』と腕に手をからませてくる美少女系とか
その後の展開には似合う。
まぁ、それに近い事もあるかもしれないけれど。
董吾は頭の片隅で考えると、向かい合わせの席に座る登吾に似た、ひしゃげたポテトを口に運んだ。
#向かい合わせ
「あ、あの…」
私は鞄の持ち手を握りしめながら、彼に尋ねた。
心臓が、ヤバイ。
喉から飛び出すのではないかと思うほどに、ドキドキしている。
掌に汗が滲んできて、私はどこに視線を向けたらよいのかパニックになり始めていた。
「んー?」
対照的に、彼は涼しげな顔でスマホを触りながら私の髪を左手ですいていた。
「か、髪…どうして…」
震える声でうつ向き気味に言うと、彼は顔を上げて私の顔をまじまじと見た。
「え、気持ちいいから。あんたの髪、指からサラサラ~って流れてさ、この感触は癖になるわ」
ニヤリと笑う顔に、特大の拍動が私を襲った。
「あ」
彼はふと何か思い至ったようで、左手の動きを止めた。
「もしかして嫌だった?」
神妙な顔でまた覗き込んでくる。
もうこれ以上私の心臓を苛めないでっ
私はぎこちなく首を振って、言った。
「い、嫌とか、じゃ、なくて、、あの」
そこで、彼のきれいな顔に見入ってしまう。
それはわずか3秒くらいだったと思うけれど、彼はますます神妙な顔つきになってしまった。
「もしかして…」
も、もしかして?
私の気持ちがダダ洩れに―
「俺、あんたのこと困らせてる?」
「え、あっ、ちが...」
「正直に言ってよ」
もう、心臓よ、平常運転で頼む
「ち、違いますよ」
平常心平常心
「ただ…この髪をきれいって言われたり、さ、触られたりしたことって、なくって、」
ほぉら、だんだん落ち着いて…
「んじゃあ、俺が初めてなわけね!燈ちゃんの美髪、こうやって可愛がってんの」
ん?え?可愛い?
誰が?何が?
私はいろいろ限界過ぎて、ちょうど停車した駅で電車を駆け降りた。
目の前で浜里燈が駆け降りて行ってしまう姿を呆気にとられて見ていた武聡一郎は、所在無さげな左手を見て、赤くなっていた。
「…んだよ…」
無防備に触らせてくれるからてっきり…
「男慣れしてないのな…」
そこがまたいいんだけど
「たーけちゃんっ」
聡一郎は後ろを振り返ると、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「丸星…お前、…いってぇっ!」
体格のいい川嶌丸星のデコピンをまともに額で受け止めた聡一郎は、思わず悲鳴をあげてしゃがみこんだ。
「たけちゃん、誰が巷で下の名前で呼んでいいって言った?」
丸星は自分の名前が嫌いなのだ。
小学生の頃は『丸干し』と言われて、同級生数人に全裸にさせられそうになったこともあった。
聡一郎はたまたまそんな場面に出くわし、たまたま素行不良だと教務主任にしぼられに担任と職員室へ向かうところだったので、当時たまたま華奢だった半べその丸星の腕を掴むと、
「先生っ、アイツら頼むわっ」
と言い残し、一目散に廊下を逆方向へ駆けていったのだった。
その日から今日まで…
「何すんだよ、悪友」
聡一郎は額を掌で覆いながら、丸星を睨み返した。
「親友の間違いだろ?」
努めて柔和な笑顔で返した後、丸星はニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「あの子、たけちゃんの彼女?」
「え、何?お前ずっと見てたの?」
聡一郎が顔をしかめる
丸星は信じられないと首を振り、
「親友を覗き魔みたいに」
「いや、どちらかというとストーカーじゃね?」
丸星は軽く咳払いをすると、聡一郎の耳元へ口を寄せた
「あんな純な子、今時珍しいよ~」
「うるせーよ」
「ただね」
「何だよ」
「溺愛モードはちょっと早すぎると思う」
「ばっ…」
聡一郎は顔を真っ赤にすると、勢いよく立ち上がった
「ま、俺みたいに裏返しでからかうタイプよりはマシだろうけどね」
丸星がケタケタと笑うと、聡一郎は憮然とした顔で悪友を見てため息をついた。
#裏返し
怖い夢を見た
前に勤めていた会社で
上司や先輩からこっぴどく叱責される夢
カーテンの隙間から洩れる光は薄暗く
私はノロノロと布団を出ると
普段の自分ではあり得ないほどのスピードで
トイレに向かった
退職して半年以上が経った
時間が癒してくれるだろうと思った傷は
相変わらず血が滲んでは、スルスルと流れ落ちていたのだった
あんなにウキウキと
壁アートを施したトイレの壁も
廊下の壁も
その鮮やかなはずの色彩が
くすんでグレーがかって見える
何も
痛み以外、感じない
パートナーは「トラウマになってるんじゃないか?」と言った
そう、なんだろう
他人事のように独りごちると
私はため息と共に便座から立ち上がった
パートナーは既に起きて、出勤準備を整えていた
私の様子に気づいたのだろう
「どうしたの?怖い夢を見た?」
彼の顔に『心配』という2文字が浮かんだ
怖い夢
そう
私の無防備な精神をバットで袋叩きにされたような
痛くて
苦しくて
辛くて
やるせなくなって
泪が流れる夢
「うん…」
私は彼の背中にしがみついた
アイロンをかけてぱりっと仕上がったシャツにシワがクシャリと描かれた
几帳面な彼は気にせず、「そうかぁ…」と間延びした声音でそのままでいてくれた
「俺はね」
「うん」
「君からだんだん笑顔が無くなっていくのが心配だった」
「…」
「だんだん痩せて、小さくなって…。治療が始まって、君にとっては不本意な終わり方だったかもしれないけれど、あの職場を離れて、よかったと思ってるんだ」
「…でも」
私は息を吸った
「でも、私は、何も出来なくなっちゃった。役にた、たなく…なって…」
喉がつかえて、泪が溢れた
私は、何の役にも立っていない
彼が私の両手を優しく包む
「違うよ」
「生きていてくれるだけで、いいんだ」
私は、あの職場にいた自分を救えずにいる。
夢の中でも。
でも、苦しみが、泪が、報われるように、進むのだ。
あの人達とは訣別したのだ。
さよならなんて、きれいな言葉は投げてあげない。
忘れてしまうくらい、幸せに、楽しく生きてやるんだ。
#さよならを言う前に
学生の頃
アシストがなくて
ペダルを踏んだら
軋んだ金属音に不快感を覚えるような
古びた自転車を先輩から譲り受けた
車の免許を取ったけれど
ペーパードライバーだった私が
はじめて一人暮らしのアパートに招き入れた未来の愛車だった
大学に通う道すがら、舗装されてから年数が経っているであろう道を小さくダイブしながらペダルを踏む
ほとんど車道しかない蝉時雨の田舎道を
頼りない錆び付いた車輪で走り抜けた
学生の間で
滑走路と言われている拓けた一本道がある
大学とは真逆の方向だが
入道雲が日本アルプスの連なりを背景に立ち上ぼり
まるで異世界へ導く光の道のような風体で眼前に伸びてあった
絵画にでも出来そうな景色に一瞬目が眩みそうになる
この空を
道を
風を
臭いを
先輩は知っていたのだろうか
私のように果敢に挑んだのだろうか
この自転車で
私は水筒から冷えた麦茶を口に含み
ふと、大学校舎を振り返った
#自転車に乗って